2011年4月20日

楽譜


■楽譜は遺産


楽譜は「記録」だから人類の宝物であり未来へ引き継ぐべき遺産。

楽器は「道具」だが過去の名匠の作品だから二度と製造(制作)出来ない点で、やっぱり人類の宝物であり遺産。

管楽器の多くには産業革命以降の工業生産品的側面もあるけれど、日用品と同じというわけではない。やはり一本一本が遺産だと思います。

現代人はそれを「過去から預かって(あるいは過去のものを基に、自分たちで新規に創造して)」未来へ渡す役目がある。
これは何百年経とうとも、「その時々の現代」が担うことに違いありません。
 
「楽譜や楽器はお前の命より重い。事故に会ったら死んでも守れ。子供だと思って守れ」
これはわたしの恩師の言葉。(一部改変)


■楽譜は「お預かりするもの」
 
別にわたしは、ガリ版刷り時代における楽譜の貴重さや、貴重な原譜の入手困難さや高価さを思い出してノスタルジーを感じたいわけではない。
コピー機登場後のことや、ましてや近年はPDFで手に入る安易さを見くだしているわけでもない。
 
ただ、「この楽譜は、数十年、数百年にわたって、守られて伝わってきたもの」という意識や、新曲の場合でも「作/編曲者が人類初の“何か”をここに生み出してくれたもの」という気持ちを大切にしていきたいな、と思っているだけ。
 
それは人を尊敬する心だったり、あるいは畏敬の念をもつことに近い。
「謹んで、お預かりいたします」
「よろこんで、演奏に善処いたします」
べつに、これらは自分を卑下していることにはならない。

運動会のリレー。そのバトン。
前の走者から受け取る責任、走る責任、次の走者に渡すまでの責任。
別に、「駅伝のたすき」でたとえてもいい。

「謙虚で本気」
「遠慮して全力」
そういう気持ちがなにごとも大切だと思うそんな午前3時です。


■楽譜を「返却」するという考えかた

読みやすいきれいな楽譜が容易に手に入る(あるいは作る事ができる)こんな時代だからこそ、「(楽譜入手の困難さが)骨身にしみてわかる」なんてことは起こりにくい。
わたしは、それを補うのは「想像力」だと考えています。それに、想像力を雲だとすると、雲を構成する水蒸気が「論理」だとも。
 
想像力と論理的思考。
「楽譜が手に入らなかった過去の時代をイメージして、今を『ありがたがる』」ことではないですよ。
「この『巡り合わせ』あるいは『縁』で、わたしは演奏機会を得ることができました」という想像力です。

思い出を持つのは個人の自由ですし、思い出はその人だけのものです。
でも、楽譜は、もっと大きな「自分以外の人のもの」だと思うのです。

わたしが楽譜を団体に返却するのはそのためです。
わたしが使った楽譜が使われる事は2度とないかもしれませんけれど、「わたしがその楽譜に寄り添った時間」は、奏法や表現方法の指示や注意書きとして残る。
 
主役はわたしではないんです。「楽譜>楽器>自分」の順番。
「わたし」が「別の奏者」に代わっても成立する。
「わたしと楽器」が「別の奏者と別の楽器」になっても音楽はそのまま。
でも「楽譜」が変われば「それは別の音楽」なんです。


■「風船的人間」にならないために

これは「逆説的エゴ(過剰自虐的自意識過剰)」でしょうか?
そうはならないと思います。
世界の中心が自分でない自覚があれば、「実は世界の中心なんてものはない」ということに気づきそうなものです。
一方で、「世界の辺縁にいる自分の中心」は確かめられると思います。
 
「自分の現在地」は分かりえなくても、「自分を形成している『自分の中心』」は探したらみつかりそうなものです。
これが見つからなければ、芯のない、風船でしょう。
 
表面張力で外見を保っている人間がいるとすれば、そんな風船的人間かも。
でも、力学的には風船にも中心がある。
その中心点には何がある? 自問です。自問“他”答。

わたしにとって、「楽譜と、楽譜的位置づけだと思える文書」がその点になっていそう。
「過去から、うやうやしく受け取る。未来へ、厳粛な気持ちで引き渡す」
楽譜って、そういうものかなぁ、と。
 
楽譜の話からはじまって、ずいぶん飛躍したけれど、まあ結論は「楽譜はあなたのものではない。もちろん、わたしのものでもない。大切に扱いましょう」ってとこくらいの話。
 

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