2011年4月21日

ホラーとミステリ

死に関する話を少し。

わたしはホラー映画や小説は好きです。
一方、ミステリ小説やドラマはあまり好きとは言えません。

ホラー映画には多くの場合、死についての考察が含まれているからです。
脚本家や監督の価値観に基づく思想です。
これらの思想には、時には解きようのない「謎」が含まれています。

ミステリドラマは、事件の発生と解決を論理的に、多くの場合はトリックを交えながら物語が進んでいき、死そのものはあまり考察されません。
物語中の死者と生者の行動と思考がクローズアップされ、解の見つかる謎掛けで構成されています。

ミステリでは、「死」ではなく「殺」が焦点の対象だからかもしれません。


■焦点の違い


どうやって死んだのかよりも、なぜ死なねばならのかったのかについて、作者(あるいは監督など)がテーマとしている方が、鑑賞対象として好みなのだと思います。
 
もちろんミステリのなかにも、死についての深い洞察を含めつつ、エンタテインメントとして昇華している良作も少なくないでしょう。
反対に、ホラーにも“おバカホラー”という軽〜いノリの作品群があることも事実です。
 
ですが、その作品の「後味の良し悪し」は別として、わたしは「一件落着」で終わることが好みではないのだと思います。

そのホラー映画の監督が変態で思想的に奇人で作品も常軌を逸している場合があっても、それもひとつの直視する「監督の頭のなかの現実」(ひとはそれを「空想」と呼ぶかもしれないけれど)にほかならない。

『エイリアン』は異星人による殺戮を描いているけれど、逃げ惑う人、抵抗する人、そういう「生き方(生存本能、あるいはサバイバルに直面する行動)」が焦点になっていると思います。

でも、「ナゾトキ」ミステリは、用意された綱をたぐっていけば、解答までたどりつけるようになっています。
登場人物の生き方云々ではなくて、「ロジック(あるいはトリックや仕掛けの機械的な矛盾のなさ)」の奇想天外さや面白さに焦点があたります。
 
一方、「ナゾカケ」ホラーは、解答がない。見るひとが感じたり、考えたりするままでいい。
作者は一定の結末を物語に与えているとしても、つじつま(ロジック)の整合性がとれているとは限らないです。

箱庭を完璧に「管理」するなら、ロジックの楽しみ方でいいと思います。
しかし、自然の庭を「手入れ」するには、あるがままを受け入れるしかない場面にも出くわします。因果関係を「理解」はできても、「操作」はできないように。

わたしは、その「操作できない」こと、偶然性、自然(じねん)、などなど、「どうにもならないこと」がテーマになっている作品が好みだったりするし、そこに面白さを感じるのでしょう。

『シックスセンス』や『アザーズ』はナゾトキか、ナゾカケか。
解説はできても、解答とは言えない、とか。


■恐怖と神秘の違い

わたしは映画評論家ほど、多くの作品をしっかり鑑賞しているわけではありませんから、あくまで自分の見た範囲での話になってしまうけれど、「この 仕掛け(ロジック:ナゾトキ)は面白いだろう?」という作者の姿勢がうかがえる作品よりも、「私に描けるのは、この物語世界のなかで起こった事の、ほんの 一断面に過ぎません(ナゾカケ)。書かれている事は『部分ですが物語としては全て』であり、書かれていない範囲こそが『全てを含む全て』なのです。これ表 現できません」という作者の姿勢に好感をもつのです。

ホラーが「恐怖」で、ミステリが「神秘」。
この訳語もおもしろいな、と思います。
恐怖は内側にあり、神秘は外側にある。
内側には触る事はできず、外側にある「神秘っぽいもの」の多くはハリボテか偽装です。

なんとなく恐怖は暗闇を、神秘は光明をイメージさせます。
人間の目は光を知覚できる。知覚できるものがない状態が闇になります。
闇は知覚できません。

闇が知覚できないように、謎を解くこともできない。。
もし「謎が解けた」と思ってその「謎」というドアを解錠できても、次の部屋にはドアが2つある。
もし「謎が解けた」と思ってその「謎」という疑問を払拭しても、判明した事実には次の謎まみれ。
ナゾカケホラーは、ときに意味不明でも、意味も不明も、合致する既存価値観がないだけ。
ナゾトキミステリは、かならず合致する既存価値観や方法論からは外れません。

ホラーにいるのは作者という人間の内側の闇。
ミステリにあるのはハッキリと触ることのできる功名心という刺々しい物体。

推理小説の登場人物が、つかむことのできない闇をもって描かれているならば、わたしはそれはホラー小説だと思っています。
殺人方法は探偵によって解明されても、殺人動機には「手ざわり」がないからだ。
凶器は握れるが、狂気は触れられません。


■ホラーは文学的


だからときにホラーは純文学に匹敵します。
ミステリドラマの殺人犯は、「現実にいそうにない人間」ばかり。
わたしは物語中の「実際にいそうな人間」に関心があるから。

怪奇もの、心霊ものなどのホラーもそう。
低予算映画のヒット作の多くがホラーなのもそう。
「現実」に似せていく事と、予算は正比例はしない。
破綻のないロジック(芝居)は、船越英一郎の岸壁の説得シーンだけで十分。(笑)

ナゾトキは饒舌。
ナゾカケは寡黙。

ナゾトキの世界は小さく、ナゾカケは世界そのもの。
作者が「死と生」と「人間と自然」をどう扱いたいのかによって、ホラーとミステリがわけられるのでは。
わたしの考えはこんなところで、両者を区分けしているのです。
つまり、命についての表現上に関する思想あるいは自分なりの考え方なのです。