2007年11月13日

ルネサンスとは何であったのか
 
創造の本質、人間の欲求である「見たい、知りたい、分かりたい」が爆発した精神運動。
 
創造への結晶。考えるだけでは不十分、表現することで初めて理解となる。
 
ルネサンスに至るまでの土壌

  • 聖フランチェスコ
    • 商人の子、大学の出ではない
    • 日常語であったイタリア語でキリスト教の教えを説いた。
    • ラテン語は民衆とは乖離。イエスの教えを民衆が自らの頭で考える、新しい聖書の解釈。
    • 選択の自由。非難、排撃をしない。
    • 修道院に寄進すれば救済があるとしたことは、商人に受け入れられた。
    • 貧しさを尊ぶ思想

  • フリードリヒ二世
    • 神聖ローマ帝国皇帝。
    • 皇帝だが高等教育を受けておらず、キリスト教社会では異分子的存在。
    • 大学を出ていないが、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、アラビア語を読み書き話せた。
    • 数学、幾何学、天文学に強い関心をもっていた。
 
フランチェスコは、
  • 聖書と向き合う
  • 虚心とともに読解
  • 自然と向き合う
  • 内なる声を聴こうとした
 
フリードリヒ二世は
  • 好奇心おもむくままに読書した
  • アラブ人たちを臣下におき、科学の教授を受け、実地教育を受けた
 
 
宗教に対する3つの態度

フリードリヒ二世の時代から800年が過ぎてもなお、現代のヨーロッパでは……
  • ateo
    • 神の存在を信じない。無神論者、無信仰者。
  • credente
    • 信仰者。
    • 特にpraticante は教義に忠実、ミサには必ず通うような人々。
  • laico
    • 神の存在を否定はしないが、宗教の関与すべき分野とそうでない分野を明確に区別する人々。
の人々がいる。
 
★ルネサンス期のヨーロッパにおいては、マキアヴェッリも、ガリレオ・ガリレイも、フリードリヒ二世も laico であった。
いわば、ルネサンスは laico たちの精神活動であった。
 
 
フィレンツェ人気質
 
我が身まで傷付けかねないほどの強烈な批判精神。
芸術家の工房は一階にあり、同時に店でもあったので、自由に出入りできた。
 ↓
誰でも自由に批評を言っては立ち去っていった。
購入する気のある人も、ない人も。
 ↓
芸術家はこの手の忠告に貪欲。
批判者と言い争った後で、こっそり作品を補正していたのだろう。
 ↓
当時のフィレンツェは絵画、彫刻に限らず、美を追求するならば何でも引き受けていた。絵も、彫刻も、金工も。
 
★フィレンツェの工房では、見習いはあらゆる作業に従事した。ジャンルを専任するのは、出世後の事だった。
 
 
出版の自由
 
言論の自由が認められていたヴェネツィアで、出版のルネサンスがおこった。
 
★出版によって、知識は協会と修道院から市井へと広がった
 
グーテンベルク
  • 1455年 「42行聖書」の印刷
 
アルド・マヌッツィオ アルド出版社を創立
  • 1490年 ヴェネツィアに渡る
  • 1494年 「ギリシア詩集」刊行
  • 1498年 「アリストテレス全集」刊行
  • ギリシア、古代ローマの「古典」のほか、エラスムス等「現代」作品も刊行した

1495-97年の間、全ヨーロッパで1821点の書物が刊行された。
その内、447点がヴェネツィアで刊行された。(2位のパリは181点) 
 
■ アルドが発明したもの
  1. イタリック体(書体)
    • 読みやすく、ページ内の文字数を多くすることができた
  2. 文庫
    • 紙を8回折るとこから、「オッターヴォ」(八つ折り)と呼ばれた
    • 安価さと小ささで、一般と学生にヒット。普及の原動力となった
 
芸術の振興は教養のある経済人による援助が不可欠。
フィレンツェでは、コシモ・デ・メディチ、ピエロ、ロレンツォの三代がそれにあたる。 
 
■メセナの語源
 古代ローマの皇帝ティベリウスの補佐であったマエケナスが詩人のヴェルギリウスやホラティウスを援助したことに由来。
 
 
アカデミア・プラトニカの終焉
 
一流学者たちの解散。
その理由は、観念論は別の観念で向かってこられると、意外と弱いもの。
ヨーロッパ屈指の学術機関だったのに、ロレンツォの死後、2年で解散。
 
 
哲学と科学
 
誰かがごく一般的な疑問をもった時に発生する「好奇心」。これが科学と哲学の種。
 
ギリシア文明はわずか200年間のあいだに華やかな知性の爆発があった。
  • 芸術、科学、文学、哲学
  • すさまじい量の創作が起こった
  • ヨーロッパ文明の基礎となった。
 
★すべての事柄に「なぜ」を突き付ける
そして、自分なりの回答を常に探す(仮説、想定)、そして見つける事
 
 
創作者に不可欠な要素
 
  • 謙虚さ
  • 誰にも負けないという傲慢不遜
 
一見矛盾するこの要素が成立するのが創作者・クリエイターの条件
常人であれば、その矛盾が精神のハレーションを起こしてしまう。精神の不安定化を招く。
 
創作は「なぜ」に対する、自分なりの回答でもある。
表現は伝達の手段であると同時に、頭の中の考えを明解にする効果もある。
 
 
ローマ市の略記号
 
「SPQR」 Senatus Populus Que Romanus 「元老院ならびにローマ市民」
現代ローマ人は皮肉で Sono porci questi romani 「ローマ市民は豚である」と表現さえする。
  
どこの国よりも国際的、コスモポリタン「ローマ」
 
 
反動宗教改革と異端審問の時代

異端審問官の「実績」をみよ。
動機のただしさを確信している者の行う悪こそ凄まじい。
 
16世紀半ば、異端審問官の手の及ばない知は、ヴェネツィアかアムステルダムのみだった。
 ヴェネツィアでは
  • 異端審問が開かれなかったわけではない。設置は認められていた
  • ただし、共和国側の人間(俗人)の出席が義務と定められた
  • 会則には、委員がひとりでも退席したら、流会になると決めた
すなわち、ヴェネツィアは、反動宗教改革に反対はしなかった。単純に「流した」のである
 
 
大航海時代
 
大航海時代における重要人物

<氏名/出身地/出資者>
  • バルトロメオ・ディアス ■ポルトガル ■ポルトガル王
  • クリストフォロ・コロンブス ■ジェノヴァ ■スペイン女王
  • ヴァスコ・ダ・ガマ ■ポルトガル ■ポルトガル王
  • アメリゴ・ヴェスプッチ ■フィレンツェ ■スペイン王
  • フェルディナンド・マゼラン ■ポルトガル ■スペイン王
  • ジョヴァンニ・ダ・ヴェランツァーノ ■フィレンツェ ■フランス王
 
★大航海時代の航海探検は航海者が企画を出資者に売り込んで実現したもの。スポンサーにももくろみがある。 
 
スペインやポルトガル人は進出先を領有するため、ヴェネツィア等は交易のため。
インカ帝国の滅亡は、スペイン人による掠奪によるものだから、もし、イタリア人が大航海時代をリードしていたならば、インカは滅亡しなかったかもしれない。
 
大航海時代の隠れた主役
 
パオロ・トスカネッリ
 
コロンブスに、インドへの近道は、アフリカに沿っての南下ではなく、大西洋を西へと横断する方法であると言った人物。
人生のほとんどをフィレンツェで過ごしたが、地理学、天文学、宇宙学の学者。
自然現象の観測と数学、幾何学によって、緯度と経度の概念を考えた。
ギリシア語とラテン語に非違で、古代の文献を自分の考えに取り入れた。
また、ハレーよりも前に、ハレー彗星を4度も観測した記録がある。
 
 
権威と権力
 
  • ヴェネツィアは、このバランスを巧みに取った。
  • 国家の代表者である元首(ドージェ)、その権威は国家の最高
  • しかし権力は元老院200票の中の1票でしかない。十人委員会では17票の中の1票
  • 権力が権威のもとに集まらないように工夫されていた
 
権威と権力が比例するのが帝政や君主性である
 
  • ヴェネツィアには「大金持ち(大富豪)」は現れなかったが「富豪」は大勢いた。
  • 貧富の差はいつもあったが、「層」として固定されておらず、敗者復活戦のシステムがあった。
  • 遺族年金のシステムも存在していた。
 
 
表現とは。天才の作品を理解するには
 

表現とは、自己満足ではない。
他者に伝えたいという強烈な想いが内包されているからこそ、力強い作品に結晶する。
 
芸術の解説書を読む必要などない。
作品を前にし、自分が「天才」になったつもりで「虚心平気」に彼らと向き合えば良い。
天才とは、こちらも天才になった気にならなければ、肉薄できない存在なのだ。
 
ダ・ヴィンチが書いたものには、「キミ」という呼びかけが使われていることが多い。
となれば、その「キミ」になって読まなければ、どうしてダ・ヴィンチを理解できようか。
 
 
塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」