聴いたことも、考え、そしてまとめないかぎり、シェンツァ(サイエンス)とはならない(マキアヴェッリ) 思考、知識は第一次的である。その同種を集め、整理し、相互に関連づけると第二次的な思考、情報が生まれる。これをさらに同種のものの間で昇華させると第三次的となる(外山滋比古) などなど考えつつ、読書メモ。
2008年8月18日
2008年6月14日
「コンテンツ」考
コンテンツ考
仕事柄、ビジネス書やマーケティング、Web 2.0だとかのIT関連書に目を通す機会が多い。
その際に、常々疑問に感じているのが「コンテンツ」という言葉(あるいは表現)だ。
content
【名】{ないよう(ぶつ)}{なかみ}{ざいちゅう ぶつ}入っているもの、内容(物)、中身、在中物、目次
http://eow.alc.co.jp/content/UTF-8/?ref=gg
コンテンツの意味するところは、上記の通り、情報産業においては「情報の中身」となる。
「その情報についての情報(関連情報)」メタデータや、「情報伝達のための手段」インフラストラクチャーとセットになっている。
料理自体は「コンテンツ」、と例えるならば、その料理を作ったOZAKIシェフが一つ星であることや、店であるリストランテオザキについての情報、あるいはその料理の材料が直輸入のイベリコ豚と北海道のOZAKI農園で採れた野菜を使っている、などの他諸々の情報は「メタデータ」。
そしてお皿、テーブルと椅子、カトラリーもそうだし、料理を運んでくる給仕のスタッフが「インフラ」。全部がそろって、はじめておいしい料理が食べられるという訳だ。
私はIT関連の仕事をするまで、「コンテンツ」といえば、単に「目次」を意味している程度と認識していた。索引は「インデックス」であるから、ニュアンスとしては「メニュー」に近い、と。
にわかに「コンテンツ産業」という表現を耳にする機会が増えて、はたと不思議に思った。「中身」を創作することは、たしかに産業と呼べる商業活動だろう。だけれど、この「生産活動」から生み出され、世に送り出される「創作物」は、単純に押し並べて「コンテンツ」と呼んでよいのだろうか。
商品棚に陳列されている形態は同じだとしても(例えば「CD」)、ビートルズとブラームスは違う。
同じブラームスの交響曲の1番のCDだとしても、Aフィルハーモニーの録音とB交響楽団とでは違う。
5分39秒とうい尺(times)が同じ曲があったとしても、歌謡曲とスラッシュメタルでは違う。
一方、3時間の映画でも90分の映画でも、料金は同じだ。
さて、ここまで意図的に避けてきた言葉(表現)がある。
産業として創られ、消費活動として人に吸収される音楽、美術、文学、漫画やアニメ、ゲーム、料理、建築、自動車、家具、衣類、医薬品、農作物に狩猟採集の魚介類や鳥獣肉類、ありとあらゆるもの、これらは確かに「情報の中身」だ。
だけれども、これらは潰して整形されて人に提供されるわけではない。
これらは、いずれも「作品(work)」だ。作品は、1点1点が独特(unique)だ。
大量生産、大量消費されるものでも、それ自体は代替できない。
「ナスカレー」は「ナスっぽいものが入ったカレーっぽいもの」では置き換えできない。
商品として「コンテンツ」と呼ばれ、扱われ、流通されるとき、ひとつひとつは表情を失うかもしれない。
市民一人一人には顔がないかもしれない。しかし人は一人一人が個別の存在。
子供は、親にとっては「作品」ではあっても「情報の中身(コンテンツ)」ではないだろう。
私が違和感を感じる「コンテンツ産業」という表現。
ひとつひとつが違う、だから受け入れられる、多様で個別の作品。
多様であるから多数が生まれ、作品には愛情が注がれるし、創作者(あるいは職人)には敬意が払われる。
価値がある。価値が分かる、知られている。
ときどき明星にように輝く傑作(masterpiece)も現れる。
コンテンツ産業というのは、送り手と受け手が、その価値を共有できることが根底にある。
愛情、情熱、真摯な態度、諧謔の精神、自分こそが天才だと思える強心臓、批判には臆病だがいつでも貪欲に受け入れる謙虚さ、そして、それらの矛盾を統合しながら、「なぜ」に解を与えようとすること。
こうした創作者の諸条件を超越してきた創作者が世に送り出すものを「ガワ」と「ナカミ」の中身に過ぎないと言うことに、私は抵抗を感じるのだが……。
ファンや支持者が支払う対価への理解。
必ずしもビジネスとしてのコンテンツの仲介者がファンでなくてもよい。ただしこの「理解」は必要だと私は考える。
とりあえず、今日考えたのはここまで。
また後日、じょじょに詰めていく。
2008年4月14日
PowerBook G4 1GHz 12" に Mac OS X 10.5 Leopard を入れる。
PowerBook G4 1GHz 12" に Mac OS X 10.5 Leopard を入れる。
[Update有り 08-7-23] updateだけを見る場合は下へ下へとスクロールをドゾ。
愛機のPowerBook G4 1GHz 12" 756MB に Mac OS X 10.5 Leopard を入れて約1ヶ月が経った。
このインストールに踏み切る前に、あちこちのサイトを参考にさせてもらった。PB G4 1GHzへのLeopardのインストールを考えている人に向けて、私も書置きを残しておく。
使用1ヶ月の感想:すごくイイ感じ。もっと早くこうすべきだった、と思わずにはいられない。
勤め先にも申請を出し、セキュリティまわりも要件を満たして社用に。12インチのPBの重量約3Kg 2.1kg はやや重いが、出先と自宅でも使える環境を得たことは大きい。
今回は、10.2.8から10.5 Leopardへのアップグレード。
買ってきた。
参考URL:http://homepage3.nifty.com/~blacksheep/tips.html
加えて、FileVault もセッティング。
参考URL:http://docs.info.apple.com/article.html?path=Mac/10.5/jp/8736.html
[08-6-8 update]
たしかにCPU的な物足りなさが、ないわけではない。
動画の再生、重めなアプリケーションの同時起動といった状況ではちとつらいものがある。が、「遅くはなる」が「止まる」ことはいまのところない。
それよりも気づいたどうしようにもならないこと:マシン自体が重い。……こればっかりは……
動画系のサイトを見続けるには、少々の愛情が必要かも。
個人的には平気だが、人に見せるときに処理オチすると、ちょっとアレかも……?
Safariはその後、ほとんど使っていない。
2008年3月9日
#——初めてその本を読む読者を想定読者とせよ。その読者に理解可能な書き方で表現しなければ情報の発信と受け手側の理解は成功しない。読者が理解をしないということは、その企画は失敗だったということである。
と、同時に、
受け手が期待しているものを知ることなく、コミュニケーションを行うことはできない。期待を知って、初めてその期待を利用できる。あるいは、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックの必要を知る。(P129)
#先入観による期待に応えることで読者には快感が生まれ、期待をあえて破壊することで、好奇心を刺激することができる。
2008年3月2日
いずれしろ仕事が遅いということは、「有言実行」ならぬ「有限速行」のスピードが求められる時代では、仕事人として致命的な欠陥といえます。(中略)そもそも仕事というのは、九割は雑事といってよく、本当に頭を悩ます、あるいは創造性を必要とする仕事は一割もあればいいほうです。ただ、その一割が重要なのですが、雑事もその積み重ねが大きな仕事の成就を支えるので、決しておろそかにはできません。p144
自分の仕事の能力がいまいち伸び切らないと感じている人は、そのなかでも自分の最も得意とするコア・コンピテンシーは何なのかを認識する必要があります。また人に仕事を頼む場合は、既存の評価尺度だけでなく、頼もうとする相手のコンピテンシーをつかみ、その考え方や行動特性に着目すると良いと思います。p145
同じ考え方、同じ見方、同じ感じ方のものがいくら集まっても、これからは飛躍、発展、進歩は望めない。違った考え方、違った見方、違った感じ方の人が大勢いて、初めて飛躍もあるし成長もある——これが多様性(ダイバシティ)の考え方です。p147
企画書、提案書などを作るとき、目的(趣旨)というものを必ず入れます。「なぜこの企画を立案したか」に始まり、企画を作るに至った背景、企画内容の要点、達成目標、問題点、期限などを、ごく簡潔に記します。大義名分書とは企画書、提案書のこの部分に相当するといってよいでしょう。逆に大義名分書がうまく作れなかったら、その仕事はたいした意味がないのことである可能せいが大きい。p167
経過が要約され問題点が浮き彫りになれば「次の一手」が考えやすい。
経過書が持つメリットは、大きく分けて三つあると思います。「全体像がすぐ把握できる」「選択的に迅速理解できる」「推測、予見、予知が可能になる」。経過書を上手に作るコツは、箇条書きにする、比較対照する、図式・図解の多用、イラスト化、キーワードの抽出。p168
ビジネス文書の五つの原則。1必ず用件見出しをつくり、最初に結論を持ってくる。2読む気にさせる。3箇条書きを多用し、拾い読みでも分かるようにする。4最初の三分の一で読むのを止めても理解できるようにする。5すべてを肯定的、前向きに書く。p182
人は本能的に安定を求めます。しかし、変化の時代は安定性の維持が難しい。そこで大切になってくるのがバランス感覚といことです。(中略)バランス感覚の有無を判定するポイントは五つあります。第一は、「結果を想定する能力があるか」、第二は「視野の広さ」、第三に「自己改革ができるか」、第四は「定石を疑えるか」、第五は「迷った時に人に相談できるか」。多くの情報に接し、多くの人にであり、自らも冷静な観察力、判断力、豊かな感受性などを養う必要があります。p217
『朝10時までに仕事は片付ける』
#業務の効率向上に、機械化が最適であった時代はおわった。大量生産は今後はますます人手を介さなくなる。人間力を高める方法を、具体的、かつ簡潔に述べている。ただの仕事の作業効率ではなく、仕事自体の質の向上を説いている。生産性があがることで、業務時間は短縮できる。短縮された業務時間は、個人が仕事以外の面で生きる時間を提供する。そこに早起きによる時間確保の力が加われば、本当にその人物が、「人らしく生きる」道を模索できると思う。
「重要なことは<すでに起こった未来>を確認することである。すでに起こってしまい、もはや後戻りできない変化、しかも重大な影響力をもつことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することである」(『すでに起こった未来』P・ドラッカー著、上田惇生ほか訳、ダイヤモンド社刊)
未来はすいでに起こっているのです。だが、その変化にほとんど人はまだ気付いていません。その変化を発見するには「観察すればいい」とドラッカーは言っています。だが、観察しても気付く人と気付かない人がいます。
その差は何かといえば、決して分析データや調査結果ではなく、思う、感じる、考えるといった人間力なのです。偉大な人間力は、ひらめき、直観、ファジィ(あいまいさ)などによって発揮されることが少なくなく、この種の能力は残念ながらコンピュータには備わっていません。
だから、私たちは安心してこの種の感受性に磨きをかければいい。
そのためには、たえず本物や位置流なもの、いいものに接することです。最高のものは人に感動を呼び起こすものです。だから寸暇を作っては、美術館に行ったり、一流の演奏会に行って感動することが大切だと思うのです。
(中略)
一方、直感やカンは、試行錯誤を繰り返しながら、からだで覚えるものだと思います。問題意識を高めながら追究しているなかで、経験や知識が知恵となったとき、直感が磨かれていくのだと思うのです。
『朝10時までに仕事は片付ける』p80
#長く引用したが、とても本質的に重要なことを述べていると思う。
人間が、コンピュータに対し、どのような優越性を持っているのか。それはカンの力だ。
機械にできることしかできない人間は、今後はますます不要になるだろう。
知恵と直感に優れた人物たることが目指される領域なのだと思う。
「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきをみざるなり」
意味はこうです。「戦術がまずいながらも迅速に動いたと言う話は聞いたことがあるが、うまいやり方で長い時間動き続けたという話は聞いたことがない」
要するに、戦いを長引かせて国益になったためしがない、ということです。戦いにあっては巧遅より拙速のほうが良いと理解できます。時間を制するものはよく勝ちを制する。「スケジュールをつくり、つねに前倒しで実行する」ことです。
『朝10時までに仕事は片付ける』p44
#上手であることは良いことだ。しかし完成が遅い人の作業が早くなるには時間がかかる。
一方、仕上がりの完成度が低いが、手際良く進める者は、慣れるにしたがって完成度は高まる。
作業速度こそ、最重要な要素だと言えるだろう。
2008年3月1日
2008年2月24日
梅田 そう、役割の違いです。それは物語であれ、哲学書であれば、評論であれ、構造化がしっかりとなされたものを、一ページ目から三百ページまでをずっと順に読んでいくということに子供の頃からやっぱり親しむ、そういう習慣をつけるということんお重要性は絶対になくならないですよね。それが身についていたら、ネットで物足りなくなれば、本へ戻ってくるはずですからね。
梅田 「教養」の核になる、読み、書き考える力を身に付けさせてくれるのは、ネットよりも、思考がしっかりと構造化された本だと思いますよ。
『ウェブ人間論』p181
#ウェブが書籍を駆逐するか、という論議を見事に吹き飛ばす対話だと思う。ウェブの進化と真価が検索にあることを知り尽くしている梅田氏は本の特徴は構造化であり、構造的思考力を身に付けるのは構造への理解力が身に付く本以外にはない、と見抜く。
本が持つ構造化の力を身に付けられ泣ければ、ウェブが持つ検索性を有効活用することはできないのだろう。断片情報だけを入手しても、それは知性へと昇華されえない。
作品の存在を知らなかった人がそういう情報によって存在を知って本を買うと言うプラスの方が大きいと思うんです。
『ウェブ人間論』p120
#雑誌のWebに携わっていると、製作中の新刊の内容について、どこまで情報を開示すべきかを検討する。情報提供を上手におこなうことで、「webで見たから買わない」人をゼロにし、「webで始めてその雑誌に興味をもった」人を増やす方法を模索している。
梅田 ただ、それをみんながおもしろがってどんどん悪い方向に向かうのは、むしろリアル側の狭いコミュニティでより強く起こっている現象なんじゃないですか。ネット上で大事なのは伝播力なのです。書く人がいても、誰も見向きしないというのは、存在しないのと一緒。そう考えることが大切です。これは悪いものだけど面白いぞってリンクを張る人が相当数いると、検索でも上位にくるんだけど、全体でみればそんなにとんでもないことにはなっていないと思う。
平野 その自動排除のシステムは、しかし、良し悪しですね。個々人の理性的な判断がそういうものを淘汰するのであれば結構なことですけど、その良さがわからないせいで淘汰されてしまう優良な情報もあるでしょうし。
『ウェブ人間論』p105
#すごく本質的な話をしていると思う。
「秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうことだ」と塩野七生氏は書いている。天才的なひらめきによって発信された「優良な情報」を誰が拾うのだろうか? それに気付く秀才がどこかにいるはずだ。拾われる石は宝石の原石。マックス・ブロートがいなければカフカはいなかった。人類の宝たる「優良な情報」は淘汰ごときでは消えないのが、「真に優良な情報」の条件だと言える。
秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうところにある。凡才ならば理解できないために幸福でいられるのに、神は、凡才よりは高い才能を与えた秀才に は、それを許さなかったのであろう。「神が愛したもうた者(アマデウス)」の偉大さは理解できても、自分にはそれを与えられなかったということを悟った者 は、どのような気持ちになるものであろう。
「わが友マキアヴェッリ」P541
一つは梅田さんにみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できな自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かりあえる人たち同士で割ときやすい交流が行われているもの。
この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際に公開するという意識も強くないのかもしれない。
四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますがネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気が付かないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
『ウェブ人間論』p72
#
この後、匿名性についての議論をはさみ、梅田氏は、「(ブログには)日常では分からないことが現れている。リアル世界で付き合っていても相手のすべてがわかるってわけじゃない。両方合わせて一人のアイデンティティで、「ああ、人間って面白いな」って、僕などは思ってしまう」と答えている。
夏目漱石の『こころ』でも、主人公が「先生」の心の闇の中を知るのは最終章になってからだ。ひとりのすべてを知ることはできない。人の過去のすべてを把握することはできない。人の未来を予見することはできない。
人のアイデンティティについて、今後、私は考えてみたい。
これは人間観の問題になりますが、僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。僕だってその内実は他人にとって何の役にも立たない部分が大半ではないかと思う。だけど、、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたちという願望はやっぱりあるんです。(p54)
『ウェブ人間論』平野啓一郎/梅田望夫 p52、54
#人間同士の関係を点と線として結んでいくと、そこには膨大な網目が見えてくる。私と私の妻の間には夫婦という関係があり、私から妻の方向をみると「配偶者」とラベリングされている。妻から私をみると「夫」というラベルとともに、「給金運搬人」という札もぶら下がっている。この部分に限り、双方からみたとき、この関係に限り、網のこの部分は「赤い糸」だ。
Webが可視化、あるいは物質化という言葉には、テクノロジーによって、この関係は人間関係のリンクの仕方(糸のありかた)について具体化を実現させた、という意味が含まれているだろう。
分類と系統立てには、タグ付けが不可欠だ。人は他人をタグ付けする。タグは情報だ。人がその他人について、知っていることはすべてタグで表現されうる。他人の知らない面を知った時、タグが追加される。人類が思索をはじめた瞬間から続いてきたこの思想はテクノロジーと共に具現化された。「汝自身を知れ」、だ。「私はこういう人間である」とする主張はそこそこに、自身の内なるタグを探すべきなのだろうか。「自分はこうである」は「自分はこう思われたい」に過ぎないのだろうから。
永遠に問い続けるのだろうか。「私は、誰だ?」。
2008年2月16日
全く新しい事象を前にして、いくつになっても前向きにそれをおもしろがり、積極的に未来志向で考え、何か挑戦したいと思う若い世代を明るく励ます。それがシリコンバレーの「大人の流儀」たるオプティミズムである。
「ウェブ進化論」p246
#私の目指す大人は、世代交代をみずから奨励するような大人。それが私の目指す大人。自分の時代で自分のもの、知恵、アイデア、そうしたものを存分に出し切って創造の限りを尽くした後、それを次世代に託す。取捨選択は任せる。前の世代から引き継いだものを、次の世代へ、次の世代というのはつまり、未来の世界への遺産として残すこと。私は音楽を通じて、それを学んだ。10代の時、60歳までに世界の頂点たるプレイヤーになることが目標だった。前の世代からバトンタッチされるものを、次の世代へ受け渡す。きっと、そうして1000年にわたって、芸術は生き続けていくだろう、音楽は生きながらえていくだろう、と信じていた。やめるその日までは。でも、そういうことなんだ。前向き、明るく、期待をこめて、希望を持つ。そうした成熟した大人になりたい。
一気に高速道路の終点にたどりついたあとにどういう生き方をすべきなのか。特に若い世代は、そのことについて意識的でなければならない。
「ウェブ進化論」p216
#インターネットを「知の高速道路」と表現するかたは多い。私は「音声ガイダンスと照準を自動で合わせてくれるオート機能付き望遠鏡」と表現したい。肉眼では知り得なかった情報、肉眼で認識できる距離まで接近しなくては手に入らなかった情報が、足労をかけずとも見られるから。地球儀を手にして、世界の広大さと、世界の有限さを同時に知った子供のように、インターネットで知ったことを、どのように蓄積し、バイアスをかけるか。あるいは醸造するのかを考える。
- 時系列にカジュアルに記載でき要領に事実上限界がないこと、
- カテゴリー分類とキーワード検索ができること
- 手ぶらで動いても(自分のPCを持ち歩かなくとも)インターネットへアクセスさえあれば情報にたどりつけること
- 他者とその内容をシェアするのが容易であること
- 他者との間で知的生産の創発的発展が期待できること
さまざまな「知的生産の道具」と長いこと格闘してきた結果、
- 道具はシンプルなのがいい
- 道具にたいしては過度に期待するのではなく、その道具の特徴を理解してこちらからうまく歩み寄り、道具と自分がお互いに短所を補いあうようにしながら一体になってしっくりとやっていけるかどうか
ブログを「知的生産の道具」として使う場合の、私の方からの「歩み寄り方」とは何か。それは、
- 対象となる情報源がネット上のものである場合
- リンクを貼る
- 出典も転記
- 最も重要な部分はコピペ
- 簡単な意見も合わせて書けばさらにいい
- 対象となる情報源がネット上のものでない場合
- 出典を転記
- 最も重要な部分を筆写
- なぜ筆写したのかもきちんと書けば、筆写部分を「引用」扱いにできる。
「ウェブ進化論」p166-7
#ご明察! 筆写理由がなければ、自分がそこに何を感じ、将来の自分に何を残そうとしたのか、見えなくなってしまう。
そうだった。私のこの転記には、これがぬけていた。大いに恥じ入る。
つまり情報の隠蔽を基本とする従来型組織を支援する情報システムである。
一方、情報の公開・共有を原則とする新しい仕組みの場合、あらゆる情報が公開されていても、絶対に処理しなければならない自分宛の情報以外は、読んでも読まなくてもいい。
情報の送り手ではなく受け手が、必要な情報を選んで処理していく。
(中略)
「この人間にこの情報は開示しても構わない」と誰かが判断した情報だけが開示される環境かで、個々人が仕事をしていく。だから、貴重な情報を握ってコントロールすることが組織を生き抜く原則となる。よって部門間で、情報共有を目的とする会議が増えていく。
しかしモチベーションの高いメンバーだけで構成される小さな組織っで、すべtねお情報が共有されると、ものすごいスピードで物事が進み、それが大きなパワーを生む。仕事の生産性が著しく向上する。
「ウェブ進化論」p81
2008年2月2日
その場の雰囲気がリラックスしてきたら、そこではじめてメモ帖を取り出すべきである。(p250)
ノン・メモ取材が推奨されるケース
- 自己顕示欲が強い相手
- 政治家、女優、宗教家など、作話性が強い相手。
- トップシークレットを握る相手
- 警戒心が前面に出て、喋ってよいことまで喋らなくなる。
- 素人を相手に取材する場合
- ドギマギして支離滅裂になるか、紋切り型の応えしか帰ってこなくなる。
インタビューの目的は、相手から情報を引き出すことであり、自分の知識をひけらかすことではない。こちらもそのテーマに(強いことを)少しは心得ていることを示してやる必要はある。(=ときには反論も必要である)
インタビューの最後の二、三分間は最も大切なとき。インタビューイはようやく解放されるのをよろこぶあまり、つい口が軽くなるもの。
ジョン・ガンサー
「それから安請け合いをしないことだね。忙しいときや自分でやれそうもないテーマを与えられたときは、ことわるほうがよい。それが編集者に対する思いやりというものだ」
大宅壮一が新聞社を辞して独立した大隈秀夫に贈った言葉
「文章の実習」p204
2008年1月31日
2008年1月21日
2008年1月14日
されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、という働きをもっております。p3
思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります。p4
言語は万能なものではなきこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。p4
もっとも実用的に書くということが、即ち芸術的手腕を要するところなので、これがなかなか容易に出来る業ではないのであります、p14
実用文においても、こういう技巧があればあった方がよいのであります。
口語体の大いなる欠点は表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥りやすいことでありまして、p20
文章のコツ、即ち人に「分からせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出出来ないことの限界を知り、その限界内にとどまることが第一 p20
口語文といえ、文章の音楽的効果と視覚的効果とを全然無視してよいはずはありません。なぜなら人に「分からせる」ためには、文字の形とか音の調子とか言うことも、あづかって力があるからであります。読者自身はあるいはそれらの関係を意識しないで読んでいるかもしれません。しかしながら、眼や耳からくる感覚的な快さが、いかに理解を助けるものであるかと言うことは、名文家は皆よく知っているのであります。p25
われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差し支えない。p26
即ち、真に「分からせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。
文章をつづる場合に、先ずその文句を実際に声に出して暗誦し、それがすらすらと言えるかどうかを試してみることが必要。p33
この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章ではなくて、われらが日常眼に触れるところの、一般的、実用的な文章でありますp65
文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法には囚われるな。全体、日本語には、西洋語にあるようなむづかしい文法と言うものはありません。p67
文法のためにおかれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するように心がけるのが、名文を書く秘訣なのであります。p67
感覚を研くにはどうすればよいのかと言うと、
出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと が第一であります。次に
実際に自分で作ってみること が第二であります。p86
文章の要素を
- 用語:分かりやすい語を選ぶこと。
- 調子:その文章における調子は、その人の精神の流動であり、リズム。簡潔さや流麗さ、冷静さなど。
- 文体:ある文章の書き方を、流れと見て、その流露感の方から論ずれば調子、流れを一つの状態と見れば、文体。
- 体裁:文字の視覚的要素。文章の視覚的並びに音楽的効果としてのみ取り扱う。
- 品格:饒舌を慎むこと、言葉使いを粗略にせぬこと、敬語や尊称を疎かにせぬこと。それにふさわしい精神を涵養することが第一。
- 含蓄:あまりはっきりとさせようとせぬこと、意味のつながりに間隙を置くこと。
と、こう六つに分けることにいたします。p98
『文章読本』谷崎潤一郎 初版昭和35年
2008年1月13日
があえて私見を述べれば、やはり、これは人間の物語なのではあるまいか。出来事の粗筋を決定するのは、ほとんどの場合、神々の意志であり、その点では人間の介入する余地はないのだが、それが古代ギリシア人の見た神々の姿だったろう。
まったくの話、神々は気紛れで、なにを考え、なにを意図しているのかわからない。恵みを垂れてくれたかと思えば、突然、罰を与えたりする。なんの理由もないのに……。少なくとも人間には、なんの理由もないように思えるのに……。
——しかし、これだけの罰を受ける以上、なにか理由があるにちがいない——
人間たちは悩み、問いかけ、祈り、そして努力をする。計り知れない神の意志に翻弄されながら、どのようにして自分んお、人間としての倫理を確立するか。避けることのできない死をどう迎えるか。二つの叙事詩には、神々の気紛れにもまれながら葛藤する人間のドラマが随所に見えてきて、それゆえに、これは人間の物語だと思うことが私にはできるのである。現代の私たちも、このように神を見ようとすれば、見えてくるだろう。
『ホメロスを楽しむために』p283
キュプリア(キプロス物語) 戦争の原因と開戦の経緯が描かれる
イリアス アキレウスとアガメムノンの確執と和解、ヘクトルの戦死が描かれる アイティオピス(エチオピア王物語) ペンテシレイア率いるアマゾン軍が、次いでエチオピア王メムノンの軍がトロイアに加勢するがアキレウスに討たれる。そしてアキレウスの死、アキレウスの武具をめぐってオデュッセウスと大アイアスが争った事などが記されている。
小イリアス (トロイア小譚)オデュセウスと大アイアすの争いで校舎が敗れて狂気に陥ることを描く。
イリオスの陥落(トロイア落城)木馬の計略、木馬を城内に搬入することに反対したラオコーンやカッサンドラの予言が描かれ、トロイアが壊滅する様子が描かれる。
帰国物語
オデュッセイア
テレゴニア
http://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle
Title | Length (books) | Most common attribution | Content |
---|---|---|---|
Cypria | 11 | Stasinus | the events leading up to the Trojan War and the first nine years of the conflict, especially the Judgement of Paris |
Iliad | 24 | Homer | Achilleus' rage against first king Agamemnon and then the Trojan prince Hector, ending with Achilleus killing Hector in revenge for the death of Patroclus |
Aethiopis | 5 | Arctinus | the arrival of the Trojan allies, Penthesileia the Amazon and Memnon; their deaths at Achilleus' hands in revenge for the death of Antilochus; Achilleus' own death |
Little Iliad | 4 | Lesches | events after Achilles' death, including the building of the Trojan Horse |
Iliou persis ("Sack of Troy") | 2 | Arctinus | the destruction of Troy by the Greeks |
Nostoi ("returns") | 5 | Agias or Eumelus | the return home of the Greek force and the events contingent upon their arrival, concluding with the returns of Agamemnon and Menelaus |
Odyssey | 24 | Homer | the end of Odysseus' voyage home and his vengeance on his wife Penelope's suitors, who have devoured his property in his absence |
Telegony | 2 | Eugammon | Odysseus' voyage to Thesprotia and return to Ithaca, and death at the hands of an illegitimate son Telegonus |
ここで付言しておけば、古代ギリシア人にとって、ホメロスの歌は娯楽である以上に、道徳教育でもあった、ということである。<イリアス>や<オデュッセイア>を聞きながら、
――なるほど。アガメムノンはそう考えたのかーー
とかあるいは、
――オレもやっぱりオデュッセウスのように生きなきゃいかんなーー
とか、伝説上の英雄たちの原稿に思いを馳せ、それを生きていく糧としていたのである。
阿刀田高『ホメロスを楽しむために』p76
2008年1月6日
ヤマニ氏は、未開の人間と無教養な人間の違いを知っているかと問いかけた。(中略)
未開人はちっとも無教養ではない。緊密に織り上げられた社会に支えられながら、未開人はわれわれとまったく違う手段で知識を世代から世代へと伝えている。これに対して、無教養な人間というのは現代社会の産物だ。この社会の網の目はもつれてしまっていて、人を支える力がない。
この偉大な族長(シャイフ)の見方は、パパートの「コンストラクティヴィズム(構成的方法)」の考えを未開社会にあてはめたもにほかならない。
『ビーイング・デジタル』p280
もちろん、これに異議を唱える人もいる。特にヨーロッパや日本では多いだろう。仕事と自分との間に距離を置きたい人の権利を無視するつもりは毛頭ない。ただ、それとは逆に自分をいつも「接続された(ワイアード)」状態にしておきたい人間もいるのだ。単純に、どちらをとるかというだけのことである。わたし個人は、日曜に電子メールに返事を書くことになったとしても、月曜に少しでも長くパジャマを着ていられる方がいいと思っている。
『ビーイング・デジタル』p265
漢字の象形文字的な正確から、ファックスの利用は自然な流れだった。当時はコンピュータで読める日本語の文書はほとんどなかったから、ファックスを使う不利益もあまりなかったのだ。しかし記号的性格の強い英語のような言語では、コンピュータの可読性の点からいってファックスは大失敗だった。(中略)
ファックスモデムのついたコンピュータがあれば、途中で紙を使う段階は省略できる。(中略)
ファックスと電子メールのアイデアは、どちらも一〇〇年ほど前からすでにあった。ジュール・ヴェルヌが一八六三年に書いた『二十世紀のパリ』という小説の原稿が一九九四年に発見され、刊行された。ヴェルヌはその中でこう書いている。「写真電送を使えば、あらゆる文章や署名や挿絵を遠くへ送ることができる。(二万キロメートルも)離れたところから契約書に署名できるのだ。どの家庭も電線でつながっている」
『ビーイング・デジタル』p258
2008年1月3日
TV
写真
写真技術を完成させた人々は自分が表現するのに必要だからそうした。
芸術上の必要に合わせて、テクニックを洗練させた。
作家が自分の表現したい内容に合わせて形式を創造したように。
コンピュータ
社会のあらゆる階層の豊かな創造力を持った個人の手に直接つながることにより、利用面でも開発面でも創造的な表現手段となりつつあるのだ。
『ビーイング・デジタル』p119