2008年8月18日

休養は大切だ。手の動きと頭脳の動きは別だ。『吾輩は猫である』にも、皮肉たっぷりにこうある。というか、これは単なる皮肉だ。
--------
休養は万物の旻天から要求して然るべき権利である。此世に生息すべき義務を有している者は、生息の義務を果す為に休養を得ねばならぬ。もし神ありて汝は働く為に生まれたり寝る為に生まれたるに非ずと云わば吾輩は之に答えて云はん、吾輩は仰せの如く働く為に生まれたり故に働く為に休養を乞ふと。主人の如く器械に不平を吹き込んだ迄の木強漢ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多感多恨にして日夜心神を労する吾輩如き者は仮令猫と雖も主人以上に休養を要するは勿論の事である。只先刻多々良君が吾輩を目にして休養以外に何等の能もない贅物の如くに罵つたのは少々気掛りである。兎角物象にのみ使役せらる?俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である。何でも端折つて、汗でも出さないと働いていない様に考えてゐる。達磨と云ふ坊さんは足の腐る迄座禅をして澄まして居たと云ふが、仮令壁の隙から蔦が這ひ込んで大師の眼口を塞ぐ迄動かないにしろ寝て居るんでも死んで居るんでもない頭の中は常に活動して、廓然無聖などと乙な理屈を考え込んで居る。儒家にも静坐の工夫と云ふのがある相だ。是だって一室の中に閉居して安閑と躄の修行をするのではない。脳中の活力は人一倍してん熾んに燃えて居る。只外見上は至極沈静端粛の態であるから、天下の凡眼は是等の知識巨匠を以て昏睡仮死の庸人と見做して無用の長物とか穀潰しとか入らざる誹謗の声を立てるのである。
(昭和出版社版 夏目漱石作品集第一巻 122頁)
================
旻天 びんてん 秋. 秋の爽やかに澄みきった大空
木強漢 ぼっきょうかん 一本気で飾り気がない男。ぶこつもの。
仮令 たとえ
渉る わたる・かかわる
躄 いざり ひざや尻を地につけたままで進むこと。膝行(しっこう)。
熾んに さかんに

2008年6月14日

「コンテンツ」考

コンテンツ考
仕事柄、ビジネス書やマーケティング、Web 2.0だとかのIT関連書に目を通す機会が多い。
その際に、常々疑問に感じているのが「コンテンツ」という言葉(あるいは表現)だ。
 
content

【名】{ないよう(ぶつ)}{なかみ}{ざいちゅう ぶつ}入っているもの、内容(物)、中身、在中物、目次
http://eow.alc.co.jp/content/UTF-8/?ref=gg
 
コンテンツの意味するところは、上記の通り、情報産業においては「情報の中身」となる。
「その情報についての情報(関連情報)」メタデータや、「情報伝達のための手段」インフラストラクチャーとセットになっている。
 
料理自体は「コンテンツ」、と例えるならば、その料理を作ったOZAKIシェフが一つ星であることや、店であるリストランテオザキについての情報、あるいはその料理の材料が直輸入のイベリコ豚と北海道のOZAKI農園で採れた野菜を使っている、などの他諸々の情報は「メタデータ」。
そしてお皿、テーブルと椅子、カトラリーもそうだし、料理を運んでくる給仕のスタッフが「インフラ」。全部がそろって、はじめておいしい料理が食べられるという訳だ。
 
私はIT関連の仕事をするまで、「コンテンツ」といえば、単に「目次」を意味している程度と認識していた。索引は「インデックス」であるから、ニュアンスとしては「メニュー」に近い、と。
 
にわかに「コンテンツ産業」という表現を耳にする機会が増えて、はたと不思議に思った。「中身」を創作することは、たしかに産業と呼べる商業活動だろう。だけれど、この「生産活動」から生み出され、世に送り出される「創作物」は、単純に押し並べて「コンテンツ」と呼んでよいのだろうか。
 
商品棚に陳列されている形態は同じだとしても(例えば「CD」)、ビートルズとブラームスは違う。
同じブラームスの交響曲の1番のCDだとしても、Aフィルハーモニーの録音とB交響楽団とでは違う。
5分39秒とうい尺(times)が同じ曲があったとしても、歌謡曲とスラッシュメタルでは違う。
 
一方、3時間の映画でも90分の映画でも、料金は同じだ。
さて、ここまで意図的に避けてきた言葉(表現)がある。
産業として創られ、消費活動として人に吸収される音楽、美術、文学、漫画やアニメ、ゲーム、料理、建築、自動車、家具、衣類、医薬品、農作物に狩猟採集の魚介類や鳥獣肉類、ありとあらゆるもの、これらは確かに「情報の中身」だ。
 
だけれども、これらは潰して整形されて人に提供されるわけではない。
これらは、いずれも「作品(work)」だ。作品は、1点1点が独特(unique)だ。
大量生産、大量消費されるものでも、それ自体は代替できない。
「ナスカレー」は「ナスっぽいものが入ったカレーっぽいもの」では置き換えできない。 
  
商品として「コンテンツ」と呼ばれ、扱われ、流通されるとき、ひとつひとつは表情を失うかもしれない。
市民一人一人には顔がないかもしれない。しかし人は一人一人が個別の存在。
子供は、親にとっては「作品」ではあっても「情報の中身(コンテンツ)」ではないだろう。
 
私が違和感を感じる「コンテンツ産業」という表現。
ひとつひとつが違う、だから受け入れられる、多様で個別の作品。
多様であるから多数が生まれ、作品には愛情が注がれるし、創作者(あるいは職人)には敬意が払われる。
 
価値がある。価値が分かる、知られている。
ときどき明星にように輝く傑作(masterpiece)も現れる。
 
コンテンツ産業というのは、送り手と受け手が、その価値を共有できることが根底にある。
愛情、情熱、真摯な態度、諧謔の精神、自分こそが天才だと思える強心臓、批判には臆病だがいつでも貪欲に受け入れる謙虚さ、そして、それらの矛盾を統合しながら、「なぜ」に解を与えようとすること。
 
こうした創作者の諸条件を超越してきた創作者が世に送り出すものを「ガワ」と「ナカミ」の中身に過ぎないと言うことに、私は抵抗を感じるのだが……。
 
ファンや支持者が支払う対価への理解。
必ずしもビジネスとしてのコンテンツの仲介者がファンでなくてもよい。ただしこの「理解」は必要だと私は考える。
  
とりあえず、今日考えたのはここまで。
また後日、じょじょに詰めていく。

2008年4月14日

PowerBook G4 1GHz 12" に Mac OS X 10.5 Leopard を入れる。

PowerBook G4 1GHz 12" に Mac OS X 10.5 Leopard を入れる。

[Update有り 08-6-8]
[Update有り 08-7-23] updateだけを見る場合は下へ下へとスクロールをドゾ。

愛機のPowerBook G4 1GHz 12" 756MB に Mac OS X 10.5 Leopard を入れて約1ヶ月が経った。

このインストールに踏み切る前に、あちこちのサイトを参考にさせてもらった。PB G4 1GHzへのLeopardのインストールを考えている人に向けて、私も書置きを残しておく。

 

使用1ヶ月の感想:すごくイイ感じ。もっと早くこうすべきだった、と思わずにはいられない。

勤め先にも申請を出し、セキュリティまわりも要件を満たして社用に。12インチのPBの重量約3Kg 2.1kg はやや重いが、出先と自宅でも使える環境を得たことは大きい。

 

今回は、10.2.8から10.5 Leopardへのアップグレード。

 

買ってきた。

まずはヘタっているバッテリーを交換。
ご対面。
さっそくインストール。……と思いきや。
ディスクがマウントされません。
DVDが読めませんとのこと。なぜ!? PowerBook G4 1GHz 12" COMBO drive の仕様ではだめなの? と慌ててGoogleに聞きまくる。
マウントされないよ現象があちこちに報告されているようだったので、ちょっと動揺。ふと思って音楽CDや映画のDVDを入れてみたら……これらも読み取れませんでした! どうやらドライブの故障のようだ。ここ数ヶ月間、ドライブをつかっていなかったものね……。
日曜日だったので、営業している修理店はほとんどない。有楽町のBicに電話をかけてみる。
「PBG4 12インチは、現行商品じゃないので、パーツの取り寄せ&お預かりになりますね。ドライブの修理だけなら、おそらくパーツ費用と技術料で5~6万円くらいになると思います。もしメインボードも故障していたら、10万円はしちゃうかもしれません。どちらにせよ、数日から1週間以上のお預かりになると思います」
困ったぞ……と思いつつ、さらにググる。「マウントできないよ」現象に直面していた方々は、外付けドライブを使っている模様。我が家にはUSB、またはFireWireの外付けドライブはないので、急遽、近所のサトームセンまでひとっ走り行って買ってきた。 買ってきたのはIOデータのマシン。
今度は問題なくマウントできた。ようやくインストール開始。
Agree を押すこと数回。放置すること長時間。3時間半くらいだったような気がする。
「永遠に続くかと思われる最後の1分」
無事インストール終わり。
10.2.8と比較しての印象。速さについてはほとんど変化なし。「重くなった」という人もいるが、私の印象では、10.2.8と大差はない気がする。メリットとしては、やはりSarfari 3。GoogleDocsとの相性が未改善、 Hotmail へのログインで不思議な挙動をする、なんていうのはご愛嬌。状況に応じてFireFoxを使えば済む話だし。
OSの起動の際に、若干時間がかかるかしら……? でも10.2.8とそれほど変らないような感じかな。ひょっとするとインストール時に使用言語に英語を選べばもう少し軽くなるかもしれない。10.2.8のときは、英語で使っていたから。後日、機会をみてこれは試してみたい。シャットダウンもそれほど遅いという印象は持たなかった。私の心の許容範囲が広いのか、鈍感なのか……?
社用で使うために、Open Firmware にパスワードをかける。
参考URL:http://homepage3.nifty.com/~blacksheep/tips.html
加えて、FileVault もセッティング。
参考URL:http://docs.info.apple.com/article.html?path=Mac/10.5/jp/8736.html
FileVaultをかけたら、シャットダウンの所要時間が少し増えた。が、まあいい。メニューバーはグレーのまま。どうやら半透明にはならないみたい。透明度を操作するツールも試してみたがダメだった。これはビデオカードの関係かと思われる。
あ、Classic 環境はないので、Classicのアプリケーションが多いユーザーは「どっちを取るか」を検討する必要あり。
結論:PowerBook 1GHz前後のマシンのオーナーならば、Leopardへのアップグレードは検討しても損はなし。MacBook AirかMacBook Proへの移行が可能ならば、もちろんそちらを推奨するけど。

[08-6-8 update]
たしかにCPU的な物足りなさが、ないわけではない。
動画の再生、重めなアプリケーションの同時起動といった状況ではちとつらいものがある。が、「遅くはなる」が「止まる」ことはいまのところない。
それよりも気づいたどうしようにもならないこと:マシン自体が重い。……こればっかりは……
[08-7-23 update]
動画系のサイトを見続けるには、少々の愛情が必要かも。
個人的には平気だが、人に見せるときに処理オチすると、ちょっとアレかも……?
Safariはその後、ほとんど使っていない。
写真は携帯電話のカメラで撮影。そろそろEOSを買いたい。KISS Dでいいから……。

2008年3月9日

ソクラテスは「大工と話すときは、大工の言葉を使え」と説いた。コミュニケーションは受け手の言葉を使わなければ成立しない。受け手の経験にもとづいた言葉を使わなければならない。(P.F.ドラッカー『仕事の哲学』P128)

 #——初めてその本を読む読者を想定読者とせよ。その読者に理解可能な書き方で表現しなければ情報の発信と受け手側の理解は成功しない。読者が理解をしないということは、その企画は失敗だったということである。
 と、同時に、 
 
受け手が期待しているものを知ることなく、コミュニケーションを行うことはできない。期待を知って、初めてその期待を利用できる。あるいは、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックの必要を知る。(P129)
 
 #先入観による期待に応えることで読者には快感が生まれ、期待をあえて破壊することで、好奇心を刺激することができる。
 


2008年3月2日

ところがこれからは時間ではなく成果が賃金に反映されるようになる時代です。だから八時間でろうが、十二時間であろうが、成果が上がっていなければ認めてもらえないのです。いまでは「時間の長さで仕事を評価するのは、自分に対する侮辱である」という意識すら芽生え始めています。P138
 
いずれしろ仕事が遅いということは、「有言実行」ならぬ「有限速行」のスピードが求められる時代では、仕事人として致命的な欠陥といえます。(中略)そもそも仕事というのは、九割は雑事といってよく、本当に頭を悩ます、あるいは創造性を必要とする仕事は一割もあればいいほうです。ただ、その一割が重要なのですが、雑事もその積み重ねが大きな仕事の成就を支えるので、決しておろそかにはできません。p144
 
自分の仕事の能力がいまいち伸び切らないと感じている人は、そのなかでも自分の最も得意とするコア・コンピテンシーは何なのかを認識する必要があります。また人に仕事を頼む場合は、既存の評価尺度だけでなく、頼もうとする相手のコンピテンシーをつかみ、その考え方や行動特性に着目すると良いと思います。p145
 
同じ考え方、同じ見方、同じ感じ方のものがいくら集まっても、これからは飛躍、発展、進歩は望めない。違った考え方、違った見方、違った感じ方の人が大勢いて、初めて飛躍もあるし成長もある——これが多様性(ダイバシティ)の考え方です。p147
 
企画書、提案書などを作るとき、目的(趣旨)というものを必ず入れます。「なぜこの企画を立案したか」に始まり、企画を作るに至った背景、企画内容の要点、達成目標、問題点、期限などを、ごく簡潔に記します。大義名分書とは企画書、提案書のこの部分に相当するといってよいでしょう。逆に大義名分書がうまく作れなかったら、その仕事はたいした意味がないのことである可能せいが大きい。p167
 
経過が要約され問題点が浮き彫りになれば「次の一手」が考えやすい。
経過書が持つメリットは、大きく分けて三つあると思います。「全体像がすぐ把握できる」「選択的に迅速理解できる」「推測、予見、予知が可能になる」。経過書を上手に作るコツは、箇条書きにする、比較対照する、図式・図解の多用、イラスト化、キーワードの抽出。p168
 
ビジネス文書の五つの原則。1必ず用件見出しをつくり、最初に結論を持ってくる。2読む気にさせる。3箇条書きを多用し、拾い読みでも分かるようにする。4最初の三分の一で読むのを止めても理解できるようにする。5すべてを肯定的、前向きに書く。p182
 
人は本能的に安定を求めます。しかし、変化の時代は安定性の維持が難しい。そこで大切になってくるのがバランス感覚といことです。(中略)バランス感覚の有無を判定するポイントは五つあります。第一は、「結果を想定する能力があるか」、第二は「視野の広さ」、第三に「自己改革ができるか」、第四は「定石を疑えるか」、第五は「迷った時に人に相談できるか」。多くの情報に接し、多くの人にであり、自らも冷静な観察力、判断力、豊かな感受性などを養う必要があります。p217
 
『朝10時までに仕事は片付ける』
 
#業務の効率向上に、機械化が最適であった時代はおわった。大量生産は今後はますます人手を介さなくなる。人間力を高める方法を、具体的、かつ簡潔に述べている。ただの仕事の作業効率ではなく、仕事自体の質の向上を説いている。生産性があがることで、業務時間は短縮できる。短縮された業務時間は、個人が仕事以外の面で生きる時間を提供する。そこに早起きによる時間確保の力が加われば、本当にその人物が、「人らしく生きる」道を模索できると思う。

社会生態学者P・ドラッカーは次のように言っています。
「重要なことは<すでに起こった未来>を確認することである。すでに起こってしまい、もはや後戻りできない変化、しかも重大な影響力をもつことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することである」(『すでに起こった未来』P・ドラッカー著、上田惇生ほか訳、ダイヤモンド社刊)
未来はすいでに起こっているのです。だが、その変化にほとんど人はまだ気付いていません。その変化を発見するには「観察すればいい」とドラッカーは言っています。だが、観察しても気付く人と気付かない人がいます。
その差は何かといえば、決して分析データや調査結果ではなく、思う、感じる、考えるといった人間力なのです。偉大な人間力は、ひらめき、直観、ファジィ(あいまいさ)などによって発揮されることが少なくなく、この種の能力は残念ながらコンピュータには備わっていません。
だから、私たちは安心してこの種の感受性に磨きをかければいい。
そのためには、たえず本物や位置流なもの、いいものに接することです。最高のものは人に感動を呼び起こすものです。だから寸暇を作っては、美術館に行ったり、一流の演奏会に行って感動することが大切だと思うのです。
(中略)
一方、直感やカンは、試行錯誤を繰り返しながら、からだで覚えるものだと思います。問題意識を高めながら追究しているなかで、経験や知識が知恵となったとき、直感が磨かれていくのだと思うのです。
 
『朝10時までに仕事は片付ける』p80
 
#長く引用したが、とても本質的に重要なことを述べていると思う。
 人間が、コンピュータに対し、どのような優越性を持っているのか。それはカンの力だ。
 機械にできることしかできない人間は、今後はますます不要になるだろう。
 知恵と直感に優れた人物たることが目指される領域なのだと思う。
 
拙速。 『孫子』に拙速の言葉がでってくるのですが、そのくだりはこうなっています。
「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきをみざるなり」
意味はこうです。「戦術がまずいながらも迅速に動いたと言う話は聞いたことがあるが、うまいやり方で長い時間動き続けたという話は聞いたことがない」
要するに、戦いを長引かせて国益になったためしがない、ということです。戦いにあっては巧遅より拙速のほうが良いと理解できます。時間を制するものはよく勝ちを制する。「スケジュールをつくり、つねに前倒しで実行する」ことです。
 
『朝10時までに仕事は片付ける』p44
 
#上手であることは良いことだ。しかし完成が遅い人の作業が早くなるには時間がかかる。
 一方、仕上がりの完成度が低いが、手際良く進める者は、慣れるにしたがって完成度は高まる。
 作業速度こそ、最重要な要素だと言えるだろう。

2008年3月1日

「残心」とは「未練、心残り」という意味です。あるいは武道で、「一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと」という意味ですが、私は礼状によって残心の意気を伝えたいと思います。
 
『朝10時までに仕事か片付ける』p66
 

2008年2月24日

平野 「教養」というようなものを形成していく核になるものって何でしょうかね? 例えば子供が生まれたら、何をさせるか。ネットからはいるのか、本から入るのか。梅田さんにとっての両者は、基本的には役割が違うと言うお話でしたが。
 
梅田 そう、役割の違いです。それは物語であれ、哲学書であれば、評論であれ、構造化がしっかりとなされたものを、一ページ目から三百ページまでをずっと順に読んでいくということに子供の頃からやっぱり親しむ、そういう習慣をつけるということんお重要性は絶対になくならないですよね。それが身についていたら、ネットで物足りなくなれば、本へ戻ってくるはずですからね。
 
梅田 「教養」の核になる、読み、書き考える力を身に付けさせてくれるのは、ネットよりも、思考がしっかりと構造化された本だと思いますよ。
 
『ウェブ人間論』p181
 
#ウェブが書籍を駆逐するか、という論議を見事に吹き飛ばす対話だと思う。ウェブの進化と真価が検索にあることを知り尽くしている梅田氏は本の特徴は構造化であり、構造的思考力を身に付けるのは構造への理解力が身に付く本以外にはない、と見抜く。
本が持つ構造化の力を身に付けられ泣ければ、ウェブが持つ検索性を有効活用することはできないのだろう。断片情報だけを入手しても、それは知性へと昇華されえない。
作家の著作にあてはめていえば、まとまった最終作品をそのまま無料でネット公開したほうがいい、という意味では全くありません。その作品に関連する付随情報、作品の制作過程を紹介する「メーキング」的な情報、作品の断片などを、著者自らネットで公開していくのはプラスだと思うということです。
作品の存在を知らなかった人がそういう情報によって存在を知って本を買うと言うプラスの方が大きいと思うんです。
 
『ウェブ人間論』p120
 
#雑誌のWebに携わっていると、製作中の新刊の内容について、どこまで情報を開示すべきかを検討する。情報提供を上手におこなうことで、「webで見たから買わない」人をゼロにし、「webで始めてその雑誌に興味をもった」人を増やす方法を模索している。

平野 身内が犯罪者だとかいうことが最近ではすぐに暴露されてしまうでしょう。リアル社会でも人の悪口、陰口はあるんだけど、そのうち消える。でもネットだと、残りますからね。
 
梅田 ただ、それをみんながおもしろがってどんどん悪い方向に向かうのは、むしろリアル側の狭いコミュニティでより強く起こっている現象なんじゃないですか。ネット上で大事なのは伝播力なのです。書く人がいても、誰も見向きしないというのは、存在しないのと一緒。そう考えることが大切です。これは悪いものだけど面白いぞってリンクを張る人が相当数いると、検索でも上位にくるんだけど、全体でみればそんなにとんでもないことにはなっていないと思う。
 
平野 その自動排除のシステムは、しかし、良し悪しですね。個々人の理性的な判断がそういうものを淘汰するのであれば結構なことですけど、その良さがわからないせいで淘汰されてしまう優良な情報もあるでしょうし。

『ウェブ人間論』p105
 
#すごく本質的な話をしていると思う。
 「秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうことだ」と塩野七生氏は書いている。天才的なひらめきによって発信された「優良な情報」を誰が拾うのだろうか? それに気付く秀才がどこかにいるはずだ。拾われる石は宝石の原石。マックス・ブロートがいなければカフカはいなかった。人類の宝たる「優良な情報」は淘汰ごときでは消えないのが、「真に優良な情報」の条件だと言える。

秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうところにある。凡才ならば理解できないために幸福でいられるのに、神は、凡才よりは高い才能を与えた秀才に は、それを許さなかったのであろう。「神が愛したもうた者(アマデウス)」の偉大さは理解できても、自分にはそれを与えられなかったということを悟った者 は、どのような気持ちになるものであろう。
 
「わが友マキアヴェッリ」P541
僕はネットでブログをやっている人の意識って、だいたい五種類に分けられるんじゃないかと思っているんです。
一つは梅田さんにみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できな自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かりあえる人たち同士で割ときやすい交流が行われているもの。
この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際に公開するという意識も強くないのかもしれない。
四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますがネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気が付かないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
 
『ウェブ人間論』p72
 
#
 この後、匿名性についての議論をはさみ、梅田氏は、「(ブログには)日常では分からないことが現れている。リアル世界で付き合っていても相手のすべてがわかるってわけじゃない。両方合わせて一人のアイデンティティで、「ああ、人間って面白いな」って、僕などは思ってしまう」と答えている。
 夏目漱石の『こころ』でも、主人公が「先生」の心の闇の中を知るのは最終章になってからだ。ひとりのすべてを知ることはできない。人の過去のすべてを把握することはできない。人の未来を予見することはできない。
 人のアイデンティティについて、今後、私は考えてみたい。
 

ハンナ・アレントというドイツの政治哲学者は『人間の条件』という今から五十年ほど前の著書の中で、言論と活動によって結び合わされた人間関係を、図らずも「ウェブ」という言い方で表現しているんですよね。それは確かに、物質的な世界と同じくらいのリアリティを持っていて、人間はそこで、言動を通じて、自分とはどんな人間なのかということを、意図の有無に拘らず暴露してしまう。しかし、その関係性の空間は目に見えないし、保存も出来ないはかないものなので、だから「ウェブ(蜘蛛の糸)」なのだと。現代のウェブ世界は、アレントのこの「ウェブ」が可視化され物質化されたものとも考えられるかもしれません。(p52)
 
これは人間観の問題になりますが、僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。僕だってその内実は他人にとって何の役にも立たない部分が大半ではないかと思う。だけど、、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたちという願望はやっぱりあるんです。(p54)
 
『ウェブ人間論』平野啓一郎/梅田望夫 p52、54
 
#人間同士の関係を点と線として結んでいくと、そこには膨大な網目が見えてくる。私と私の妻の間には夫婦という関係があり、私から妻の方向をみると「配偶者」とラベリングされている。妻から私をみると「夫」というラベルとともに、「給金運搬人」という札もぶら下がっている。この部分に限り、双方からみたとき、この関係に限り、網のこの部分は「赤い糸」だ。
Webが可視化、あるいは物質化という言葉には、テクノロジーによって、この関係は人間関係のリンクの仕方(糸のありかた)について具体化を実現させた、という意味が含まれているだろう。
分類と系統立てには、タグ付けが不可欠だ。人は他人をタグ付けする。タグは情報だ。人がその他人について、知っていることはすべてタグで表現されうる。他人の知らない面を知った時、タグが追加される。人類が思索をはじめた瞬間から続いてきたこの思想はテクノロジーと共に具現化された。「汝自身を知れ」、だ。「私はこういう人間である」とする主張はそこそこに、自身の内なるタグを探すべきなのだろうか。「自分はこうである」は「自分はこう思われたい」に過ぎないのだろうから。
永遠に問い続けるのだろうか。「私は、誰だ?」。
 

2008年2月16日

シリコンバレーにあって日本にないもの。それは、若い世代の創造性や書かんな行動を刺激する「オプティミズムに支えられたビジョン」である。

全く新しい事象を前にして、いくつになっても前向きにそれをおもしろがり、積極的に未来志向で考え、何か挑戦したいと思う若い世代を明るく励ます。それがシリコンバレーの「大人の流儀」たるオプティミズムである。

「ウェブ進化論」p246
 
#私の目指す大人は、世代交代をみずから奨励するような大人。それが私の目指す大人。自分の時代で自分のもの、知恵、アイデア、そうしたものを存分に出し切って創造の限りを尽くした後、それを次世代に託す。取捨選択は任せる。前の世代から引き継いだものを、次の世代へ、次の世代というのはつまり、未来の世界への遺産として残すこと。私は音楽を通じて、それを学んだ。10代の時、60歳までに世界の頂点たるプレイヤーになることが目標だった。前の世代からバトンタッチされるものを、次の世代へ受け渡す。きっと、そうして1000年にわたって、芸術は生き続けていくだろう、音楽は生きながらえていくだろう、と信じていた。やめるその日までは。でも、そういうことなんだ。前向き、明るく、期待をこめて、希望を持つ。そうした成熟した大人になりたい。

(インターネットの普及、知の高速道路によって)多くの人が次から次へとあるレベルに到達する一方、世の中のニーズのレベルがそれに比例して上がらないとすれば、せっかくの高速道路の終点まで走って得た能力が、どんどんコモディティ(日用品)化してしまう可能性もある。

一気に高速道路の終点にたどりついたあとにどういう生き方をすべきなのか。特に若い世代は、そのことについて意識的でなければならない。

「ウェブ進化論」p216
 
#インターネットを「知の高速道路」と表現するかたは多い。私は「音声ガイダンスと照準を自動で合わせてくれるオート機能付き望遠鏡」と表現したい。肉眼では知り得なかった情報、肉眼で認識できる距離まで接近しなくては手に入らなかった情報が、足労をかけずとも見られるから。地球儀を手にして、世界の広大さと、世界の有限さを同時に知った子供のように、インターネットで知ったことを、どのように蓄積し、バイアスをかけるか。あるいは醸造するのかを考える。
 

たしかにネット世界は混沌としていて危険もいっぱいだ。それは事実である。しかしそういう事実を前にして、どうすればいいのか。

忌避と思考停止は何も生み出さないことを肝に銘ずるべきなのである。

「ウェブ進化論」p207
 
#思考停止では後がないことは、塩野七生氏も繰り返し言っていた。見たくないものを見ない、ではなく、現実にどう向き合うかを梅田望夫氏は述べている。
試行錯誤の末、最近は、ブログこそが自分にとっての究極の「知的生産の道具」かも知れないと感じ始めている。

  1. 時系列にカジュアルに記載でき要領に事実上限界がないこと、
  2. カテゴリー分類とキーワード検索ができること
  3. 手ぶらで動いても(自分のPCを持ち歩かなくとも)インターネットへアクセスさえあれば情報にたどりつけること
  4. 他者とその内容をシェアするのが容易であること
  5. 他者との間で知的生産の創発的発展が期待できること

さまざまな「知的生産の道具」と長いこと格闘してきた結果、
  1. 道具はシンプルなのがいい
  2. 道具にたいしては過度に期待するのではなく、その道具の特徴を理解してこちらからうまく歩み寄り、道具と自分がお互いに短所を補いあうようにしながら一体になってしっくりとやっていけるかどうか
が重要と考えるようになった。

ブログを「知的生産の道具」として使う場合の、私の方からの「歩み寄り方」とは何か。それは、
  • 対象となる情報源がネット上のものである場合
    1. リンクを貼る
    2. 出典も転記
    3. 最も重要な部分はコピペ
    4. 簡単な意見も合わせて書けばさらにいい
  • 対象となる情報源がネット上のものでない場合
    1. 出典を転記
    2. 最も重要な部分を筆写
    3. なぜ筆写したのかもきちんと書けば、筆写部分を「引用」扱いにできる。

「ウェブ進化論」p166-7

#ご明察! 筆写理由がなければ、自分がそこに何を感じ、将来の自分に何を残そうとしたのか、見えなくなってしまう。
そうだった。私のこの転記には、これがぬけていた。大いに恥じ入る。

eベイの創業者ピエール・オミディヤーは
「Web 2.0とは何か」と尋ねられ、「道具を人々の手に行き渡らせるんだ。皆が一緒に働いたり、共有したり、恊働したりできる道具を。「人々は善だ」という信念からはじめるんだ。そしてそれえらが結びついたものも必然的に善に違いない。そう、それで世界がかわるはずだ。Web 2.0 とはそういうことなんだ」
と答えている。
「ウェブ進化論」p122
開発者向けにプログラムしやすいデータを公開するサービスを「ウェブサービス」と呼び、開発者向け機能を「API(Application Program Interface)」と呼ぶ。
「ウェブ進化論」p117
「テクノロジーの重要性は正しく理解して手を打つけれどその本質はメディア企業」というのがヤフーの在り様で、たとえばニュース編集には、優秀な人間の視点が不可欠だと考える。何につけ「人間の介在」を、重要な付加価値創出の源泉だと認識している。
「ウェブ進化論」p93
小さな組織ユニットが壁を作って競争すると非効率になるから、ありとあらゆる情報を全員で共有する。
(中略)
「すごく頭のいい優秀な連中というのは皆、自分を管理できるのだ」という身もふたもない原則に支えられたプロセス。
「ウェブ進化論」p82
電子メールとは、情報の送り手が情報の受けてを選ぶ仕組みである。
つまり情報の隠蔽を基本とする従来型組織を支援する情報システムである。
一方、情報の公開・共有を原則とする新しい仕組みの場合、あらゆる情報が公開されていても、絶対に処理しなければならない自分宛の情報以外は、読んでも読まなくてもいい。
情報の送り手ではなく受け手が、必要な情報を選んで処理していく。
(中略)
「この人間にこの情報は開示しても構わない」と誰かが判断した情報だけが開示される環境かで、個々人が仕事をしていく。だから、貴重な情報を握ってコントロールすることが組織を生き抜く原則となる。よって部門間で、情報共有を目的とする会議が増えていく。
しかしモチベーションの高いメンバーだけで構成される小さな組織っで、すべtねお情報が共有されると、ものすごいスピードで物事が進み、それが大きなパワーを生む。仕事の生産性が著しく向上する。
「ウェブ進化論」p81
グーグルの「優秀な人間が、泥仕事を厭わず、自分で手を動かす」という企業文化は、情報発電所構築においてグーグルが競争優位を維持し続ける源泉の一つである。

「ウェブ進化論」p72
革命的変化に共通するパターンとして、最初の段階ではかなりのスケールでのタービュランス(乱気流、大荒れ、混乱、社会不安)が発生するとアーサー(ブライアン・アーサー、複雑系経済学のパイオニア)は買った。そして、タービュランスに続いて、メディアが書きたてるメディア・アテンションのフェーズに移行し、そして過剰投資が起き、バブル崩壊へと突き進む。(中略)人々はそれについて語らなくなる。でも面白いことに、それから一〇年・二〇年・三〇年という長い時間をかけて、「大規模な構築ステージ」に入っていく。

「ウェブ進化論」p43

わずかな金やわずかな時間をの断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。
「ウェブ進化論」p20
情報は時間が経てば古くなるが、情報から得たケーススタディは積み重ねになる。
思想は上へ上がっていくんだけど、大衆というときはどんどん下に行く。
これ以上下がれないところまできたものを日本では「現実」とか「世間」と呼ぶ。
養老猛司
 
権力はもともとコントロール装置だけど、最近はちょっとでも力を持つと、誰もが誰かをコントロールしたがる。
池田清彦
 
AERA 2005.6.13
 

2008年2月2日

ノン・メモ取材について

その場の雰囲気がリラックスしてきたら、そこではじめてメモ帖を取り出すべきである。(p250)

ノン・メモ取材が推奨されるケース

  1. 自己顕示欲が強い相手
    • 政治家、女優、宗教家など、作話性が強い相手。
  2. トップシークレットを握る相手
    • 警戒心が前面に出て、喋ってよいことまで喋らなくなる。
  3. 素人を相手に取材する場合
    • ドギマギして支離滅裂になるか、紋切り型の応えしか帰ってこなくなる。

インタビューの目的は、相手から情報を引き出すことであり、自分の知識をひけらかすことではない。こちらもそのテーマに(強いことを)少しは心得ていることを示してやる必要はある。(=ときには反論も必要である)

インタビューの最後の二、三分間は最も大切なとき。インタビューイはようやく解放されるのをよろこぶあまり、つい口が軽くなるもの。
 ジョン・ガンサー


「インタビューのコツは、まず、相手の武装解除からはじめなければいけない」大宅壮一

「インタビューとは準備である。準備のないところに収穫はない」扇谷正造

「相手の名前や頭文字、職業、肩書きなどを当人に直接聞いてはならぬ」ジョン・ガンサー

 「文章の実習」p248
大宅は、与えられたテーマに対し、三本ないし四本の柱をたてる。それに(原稿用紙の)枚数の割り当てをする。大きな柱の下には、それぞれ三本か四本の小さな柱を立てる。大宅はそれを一覧表にして机の前に貼る。人間、一夜明ければ考えが変わるものである。(中略)構想が固まったら、(一覧表を確定させ)その間に資料をあさる。必要があれば関係者に会って談話を取ってくる。

「文章の実習」p207

「そこで君に一つ忠告しておきたいことがある。いままで新聞社の社会部や文化部の次長として、君は外部へ原稿を依頼する側にあったわけだが、これからは立場が逆になる。執筆者たちが締め切り日や枚数を守ってくれなくて困った経験をもっていると思うが、編集者にそんな心配をかけてはいけない。もの書きのプロだったら、最低限これだけは守りとおさなければいけない。もし締め切り日よりも早く書き上げることができたら、早く渡しても良い」

「それから安請け合いをしないことだね。忙しいときや自分でやれそうもないテーマを与えられたときは、ことわるほうがよい。それが編集者に対する思いやりというものだ」

大宅壮一が新聞社を辞して独立した大隈秀夫に贈った言葉

「文章の実習」p204
人物論のかき方はむつかしい。大宅壮一の名言がある。「からかい、やっつけるのはよいが、斬り捨てにしてはいけない」ということばである。大宅は具体的にはこう言った。

「人物論を書く場合、いちばんよいのは、七誉めて、三けなすことだ。八誉めて、二けなすとどうしてもちょうちん記事になってしまう。六誉めて四けなすと、読者のほうにいや味が先に立ち、何か意図するものがあって、人身攻撃をしているのではないかとさえ思われる。この間の調味料の配合がむつかしい。これができるようになったら、人物
論のライターとしては一人前だ」

大隈秀夫「文章の実習」P189
あるイギリスの文章学者が文章に上達するには次のようにすればよいとすすめている。——(中略) とにかくいい文章だなと思ったものをひろいだす。そうして、それの梗概をつくる。(中略)そうして一週間経ってその梗概を基にして、前の文章を復活してみる。(中略)むしろ梗概にもとづいて新しく文章を書いてみる位の気組みで文章を復活してみる。そうして、その結果できた文章を原文とくらべ、その出来栄えを検討するがよい。
「文章心理学入門」

ボキャブラリーをふやすためには、どうすればよいか。まずはたくさんの文章を読むことからはじまる。その場合、漫然と読み過ごしていては、なんの役にも立たない。ここでは記憶力が必要になってくる。とはいいながら、人間の記憶力には、限界がある。よいことば、きれいな表現に出あったら、すかさず、ノートに書き写すという努力を怠ってはならない。

他人に深い感銘を与える文章をものするためには、書きながら考え、考えながら書くという以外に方法はない。一字一字をゆるがせにしない書き方、文字どおり彫身鏤骨の作業の連続でなければいけない。

「文章の実習」大隈秀男 p94

2008年1月31日

論旨の展開をスムーズに読ませるには、ひとつの論旨で九〇〇~千文字程度が望ましい。ひとつの段落を百五、六十文字の間で生めた文章が一番読みやすい。

大隈秀夫 「文章の実習」

私は小説の文章を、そんなに重視してゐない。もっと率直に、いひたいことが通じる文章であればよろしい。それでたくさんだと考えてゐる。文章に味の出るのは、その人間に味が出ることであり、単なる文章のうまみは、いわばアクセサリーの程度である。

丹羽文雄 「小説作法」

人が上手に話しをしようと思ったならば、その場の空気に合わない談話は人に嫌われる。人が上手に話しをしようと思ったならば、その場の空気に調和したような話し方をしなければならぬ。

波多野完治 「文章心理学入門」より「レトリック」

形容詞は、読者のために使うのであって、筆者が自分のために、すなわち、自分の文章を飾るために使うべきではない、ということになる。読む人によりよく事態を分からせるために、印象を明確にするために使うのだから、この形容詞がうまく成功していれば、結果としてその文章は美しくもなり、ヴィヴィッドにもなるだろう。

入江得郎

2008年1月21日

この絵が見るのは人の背中ばかりだ。見る者に不快感を与える(ル・コルビジェ)
この絵は抽象的すぎる。画家は間違ったのだ(サルトル)
ゲルニカを評して。

私の絵を見て下さる方は、いかように解釈してくださって結構。――パブロ・ピカソ

『美の巨人たち』2008 年1月12日放送回

……後に解ることであるが、私が村にいた間、ピエェルは、所謂白化(アルベド)の作業に取り組んでいた。これは、錬金術の大作業中、黒化(ニグレド)と呼ばれる最初の過程に続く第二番目の過程である。この過程の作業を了え、更に赤化(ルベド)の過程に成功すれば、目指す賢者の石が得られるのである。因みに従来、白化と赤化との間には、黄化(キトリニタス)と呼ばれる今ひとつの過程が有るとされていたが、ピエェルはそれを認めなかった。これは、一方で伝統的な硫黄-水銀理論に固執していたのとは殊なり、経験に即し実証を尊ぶ、彼の今一方の態度の現れであった。

『日蝕』p65

2008年1月14日

されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、という働きをもっております。p3

思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります。p4

言語は万能なものではなきこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。p4

もっとも実用的に書くということが、即ち芸術的手腕を要するところなので、これがなかなか容易に出来る業ではないのであります、p14

実用文においても、こういう技巧があればあった方がよいのであります。

口語体の大いなる欠点は表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥りやすいことでありまして、p20

文章のコツ、即ち人に「分からせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出出来ないことの限界を知り、その限界内にとどまることが第一 p20

口語文といえ、文章の音楽的効果と視覚的効果とを全然無視してよいはずはありません。なぜなら人に「分からせる」ためには、文字の形とか音の調子とか言うことも、あづかって力があるからであります。読者自身はあるいはそれらの関係を意識しないで読んでいるかもしれません。しかしながら、眼や耳からくる感覚的な快さが、いかに理解を助けるものであるかと言うことは、名文家は皆よく知っているのであります。p25

われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差し支えない。p26

即ち、真に「分からせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。

文章をつづる場合に、先ずその文句を実際に声に出して暗誦し、それがすらすらと言えるかどうかを試してみることが必要。p33

この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章ではなくて、われらが日常眼に触れるところの、一般的、実用的な文章でありますp65

文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法には囚われるな。全体、日本語には、西洋語にあるようなむづかしい文法と言うものはありません。p67

文法のためにおかれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するように心がけるのが、名文を書く秘訣なのであります。p67

感覚を研くにはどうすればよいのかと言うと、
 出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと が第一であります。次に
 実際に自分で作ってみること が第二であります。p86

文章の要素を

  1. 用語:分かりやすい語を選ぶこと。
  2. 調子:その文章における調子は、その人の精神の流動であり、リズム。簡潔さや流麗さ、冷静さなど。
  3. 文体:ある文章の書き方を、流れと見て、その流露感の方から論ずれば調子、流れを一つの状態と見れば、文体。
  4. 体裁:文字の視覚的要素。文章の視覚的並びに音楽的効果としてのみ取り扱う。
  5. 品格:饒舌を慎むこと、言葉使いを粗略にせぬこと、敬語や尊称を疎かにせぬこと。それにふさわしい精神を涵養することが第一。
  6. 含蓄:あまりはっきりとさせようとせぬこと、意味のつながりに間隙を置くこと。

と、こう六つに分けることにいたします。p98

『文章読本』谷崎潤一郎 初版昭和35年

2008年1月13日

二つの叙事詩(イリアス、オデュッセイア)には、神々が繁く登場する。神々の物語と言っても過言ではあるまい。
 
があえて私見を述べれば、やはり、これは人間の物語なのではあるまいか。出来事の粗筋を決定するのは、ほとんどの場合、神々の意志であり、その点では人間の介入する余地はないのだが、それが古代ギリシア人の見た神々の姿だったろう。
 
まったくの話、神々は気紛れで、なにを考え、なにを意図しているのかわからない。恵みを垂れてくれたかと思えば、突然、罰を与えたりする。なんの理由もないのに……。少なくとも人間には、なんの理由もないように思えるのに……。
 
——しかし、これだけの罰を受ける以上、なにか理由があるにちがいない——
 
人間たちは悩み、問いかけ、祈り、そして努力をする。計り知れない神の意志に翻弄されながら、どのようにして自分んお、人間としての倫理を確立するか。避けることのできない死をどう迎えるか。二つの叙事詩には、神々の気紛れにもまれながら葛藤する人間のドラマが随所に見えてきて、それゆえに、これは人間の物語だと思うことが私にはできるのである。現代の私たちも、このように神を見ようとすれば、見えてくるだろう。
 
『ホメロスを楽しむために』p283
冥府のシシュポスの巨石の罰

シシュポスは神をないがしろにしたかどで永遠の罰を受けている。

巨岩を山の頂上へ押し上げていく、いよいよ頂上と思ったとたん強い力押し返してきて、巨岩は下へ落ちていく。それをまた押し上げる。その繰り返し。
 
日本の賽の河原の伝承に似ている。
ギリシアの伝承は雄大であり、日本国の伝承は哀れである。 
 
『ホメロスを楽しむために』p215
トロイアの環

キュプリア(キプロス物語) 戦争の原因と開戦の経緯が描かれる
イリアス アキレウスとアガメムノンの確執と和解、ヘクトルの戦死が描かれる アイティオピス(エチオピア王物語) ペンテシレイア率いるアマゾン軍が、次いでエチオピア王メムノンの軍がトロイアに加勢するがアキレウスに討たれる。そしてアキレウスの死、アキレウスの武具をめぐってオデュッセウスと大アイアスが争った事などが記されている。
小イリアス (トロイア小譚)オデュセウスと大アイアすの争いで校舎が敗れて狂気に陥ることを描く。
イリオスの陥落(トロイア落城)木馬の計略、木馬を城内に搬入することに反対したラオコーンやカッサンドラの予言が描かれ、トロイアが壊滅する様子が描かれる。
帰国物語
オデュッセイア
テレゴニア

http://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle

Title Length (books) Most common attribution Content
Cypria 11 Stasinus the events leading up to the Trojan War and the first nine years of the conflict, especially the Judgement of Paris
Iliad 24 Homer Achilleus' rage against first king Agamemnon and then the Trojan prince Hector, ending with Achilleus killing Hector in revenge for the death of Patroclus
Aethiopis 5 Arctinus the arrival of the Trojan allies, Penthesileia the Amazon and Memnon; their deaths at Achilleus' hands in revenge for the death of Antilochus; Achilleus' own death
Little Iliad 4 Lesches events after Achilles' death, including the building of the Trojan Horse
Iliou persis ("Sack of Troy") 2 Arctinus the destruction of Troy by the Greeks
Nostoi ("returns") 5 Agias or Eumelus the return home of the Greek force and the events contingent upon their arrival, concluding with the returns of Agamemnon and Menelaus
Odyssey 24 Homer the end of Odysseus' voyage home and his vengeance on his wife Penelope's suitors, who have devoured his property in his absence
Telegony 2 Eugammon Odysseus' voyage to Thesprotia and return to Ithaca, and death at the hands of an illegitimate son Telegonus
「誉れ高い総大将アガメムノンよ、あなたは大神ゼウスから大笏を賜った人だ。絶大な権力を委ねられている。そうであればこそ、自分の考えを述べるのと同じように、他人の意見に耳を傾けねばなるまい。何人であれ、意見だけは言わせてやれ。しかし、決定権はあなたのものだ」
 
ここで付言しておけば、古代ギリシア人にとって、ホメロスの歌は娯楽である以上に、道徳教育でもあった、ということである。<イリアス>や<オデュッセイア>を聞きながら、
 ――なるほど。アガメムノンはそう考えたのかーー
とかあるいは、
 ――オレもやっぱりオデュッセウスのように生きなきゃいかんなーー
とか、伝説上の英雄たちの原稿に思いを馳せ、それを生きていく糧としていたのである。
  阿刀田高『ホメロスを楽しむために』p76

2008年1月6日

コンピュータのハードやソフトのメーカーまでが製品にマニュアルをつけて出荷するのは、邪道としか思えない。機械の使い方を教える最高のインストラクターは機械自身なのだ。

『ビーイング・デジタル』p296
貧しい人間には魚ではなく釣竿を与えよ(サウジアラビアのヤマニ石油相)1981年 ウィーンで開催されたOPEC総会での演説


ヤマニ氏は、未開の人間と無教養な人間の違いを知っているかと問いかけた。(中略)
未開人はちっとも無教養ではない。緊密に織り上げられた社会に支えられながら、未開人はわれわれとまったく違う手段で知識を世代から世代へと伝えている。これに対して、無教養な人間というのは現代社会の産物だ。この社会の網の目はもつれてしまっていて、人を支える力がない。
この偉大な族長(シャイフ)の見方は、パパートの「コンストラクティヴィズム(構成的方法)」の考えを未開社会にあてはめたもにほかならない。

『ビーイング・デジタル』p280

電子メールは一つのライフスタイルであり、われわれの仕事の仕方や考え方に大きな影響を及ぼす。特に顕著に現れるのは、仕事と遊びのリズムが変わってくることだ。週に五日、九時からから五時まで働き、年に二週間の休暇をとるというスタイルは、ビジネス・ライフの主流ではなくなりかけている。(中略)
 
もちろん、これに異議を唱える人もいる。特にヨーロッパや日本では多いだろう。仕事と自分との間に距離を置きたい人の権利を無視するつもりは毛頭ない。ただ、それとは逆に自分をいつも「接続された(ワイアード)」状態にしておきたい人間もいるのだ。単純に、どちらをとるかというだけのことである。わたし個人は、日曜に電子メールに返事を書くことになったとしても、月曜に少しでも長くパジャマを着ていられる方がいいと思っている。

『ビーイング・デジタル』p265
ファックスは日本のお家芸だが、そうなったのは(ビデオデッキの場合のように)単に日本人がほかのどの国民よりも規格化して物をつくる能力に優れていたからではない。日本の文化や言語や商習慣において、イメージ志向が強いことも理由の一つだ。(中略)

漢字の象形文字的な正確から、ファックスの利用は自然な流れだった。当時はコンピュータで読める日本語の文書はほとんどなかったから、ファックスを使う不利益もあまりなかったのだ。しかし記号的性格の強い英語のような言語では、コンピュータの可読性の点からいってファックスは大失敗だった。(中略)

ファックスモデムのついたコンピュータがあれば、途中で紙を使う段階は省略できる。(中略)

ファックスと電子メールのアイデアは、どちらも一〇〇年ほど前からすでにあった。ジュール・ヴェルヌが一八六三年に書いた『二十世紀のパリ』という小説の原稿が一九九四年に発見され、刊行された。ヴェルヌはその中でこう書いている。「写真電送を使えば、あらゆる文章や署名や挿絵を遠くへ送ることができる。(二万キロメートルも)離れたところから契約書に署名できるのだ。どの家庭も電線でつながっている」

  『ビーイング・デジタル』p258
誰でも複雑な現象を眼にすると、つい、それをコントロールするものの存在を思い浮かべてしまう。たとえばV字になって飛ぶ鳥の群れを見ると、先頭の鳥が主導権を握っていて、残りはただ従っているのだと思うのが普通だろう。しかし、事実はそうではない。秩序正しい隊形は、単純な調和規則に従って敏感に反応するプロセッサの、個々の振る舞いの総和として現れるだけで、指揮をとる個体がいるわけではないのだ。

『ビーイング・デジタル』p220
 
ばらばらに存在する部分どうしが活発に通信を行う形の方が柔軟性があり、生き延びる見込みも大きい。より長く存続し、時間とともに進化していくのは分散構造の方なのだ。
 
同 p221

2008年1月3日

デジタル化によって、メディアがビットを人々に「押し付ける」のではなくて、ユーザーがビットを「引き出す」ことができるようになる。
 
※ビットはここでは「情報」を指す。それは「コンテンツ」であり、コンテンツを構成する「データ」でもある。
 
『ビーイング・デジタル』p122
コンピュータは利用面でも開発面でも、創造的な表現手段となりつつある
 
TV
開発の動機は技術的な要請。
出来上がった技術は異質な知的サブカルチャーを多様な価値観を持った人々に完成品として手渡された。

写真
写真は写真家によって発明された。
写真技術を完成させた人々は自分が表現するのに必要だからそうした。
芸術上の必要に合わせて、テクニックを洗練させた。
作家が自分の表現したい内容に合わせて形式を創造したように。

コンピュータ
PCはコンピュータ科学を純粋に技術的な動機付けから引き離し、写真に似た形で進化させようとしている。
社会のあらゆる階層の豊かな創造力を持った個人の手に直接つながることにより、利用面でも開発面でも創造的な表現手段となりつつあるのだ。
 
『ビーイング・デジタル』p119
 



いまや、コンピュータとテレコミュニケーションにおける大きな変化は、アプリケーションによって引き起こされるようになってきた。
 
つまり物質に関する基礎科学より、人間が基本的に何を必要としているかが重要になってきたのだ。
 
『ビーイング・デジタル』p110
デジタルの世界において、メディアはメッセージではない。メッセージを具体化したものがメディアなのだ。
 
『ビーイング・デジタル』p105
 
デジタル・コンバージェンス
 
さまざまなメディアがデジタル技術によって一体化していくこと
 
『ビーイング・デジタル』p81
レス・イズ・モア
これは建築家のミース・ファン・デル・ローエの言葉である。(中略)新しいメディアを手にした初心者にとって、この言葉は常に正しい。
「切りつめたものほど豊かだ(レス・イズ・モア)」ということが、初心者には理解できないのである。

『ビーイング・デジタル』p46
ビットはたやすく混じり合う。混合したビットを混じり合ったままでも、また別々にしても扱えるし、繰り返し使うこともできる。音声、ビデオ映像、データが組み合わさったものをマルチメディアと呼ぶ、。複雑そうに聞こえるが、これはビットが混じり合ったものに他ならない。
 
『ビーイング・デジタル』p31
 
ビットはビットについての情報を教えてくれる
(ヘッダい、スラグ(見出し)、キーワード、インデックス……)