2008年6月14日

「コンテンツ」考

コンテンツ考
仕事柄、ビジネス書やマーケティング、Web 2.0だとかのIT関連書に目を通す機会が多い。
その際に、常々疑問に感じているのが「コンテンツ」という言葉(あるいは表現)だ。
 
content

【名】{ないよう(ぶつ)}{なかみ}{ざいちゅう ぶつ}入っているもの、内容(物)、中身、在中物、目次
http://eow.alc.co.jp/content/UTF-8/?ref=gg
 
コンテンツの意味するところは、上記の通り、情報産業においては「情報の中身」となる。
「その情報についての情報(関連情報)」メタデータや、「情報伝達のための手段」インフラストラクチャーとセットになっている。
 
料理自体は「コンテンツ」、と例えるならば、その料理を作ったOZAKIシェフが一つ星であることや、店であるリストランテオザキについての情報、あるいはその料理の材料が直輸入のイベリコ豚と北海道のOZAKI農園で採れた野菜を使っている、などの他諸々の情報は「メタデータ」。
そしてお皿、テーブルと椅子、カトラリーもそうだし、料理を運んでくる給仕のスタッフが「インフラ」。全部がそろって、はじめておいしい料理が食べられるという訳だ。
 
私はIT関連の仕事をするまで、「コンテンツ」といえば、単に「目次」を意味している程度と認識していた。索引は「インデックス」であるから、ニュアンスとしては「メニュー」に近い、と。
 
にわかに「コンテンツ産業」という表現を耳にする機会が増えて、はたと不思議に思った。「中身」を創作することは、たしかに産業と呼べる商業活動だろう。だけれど、この「生産活動」から生み出され、世に送り出される「創作物」は、単純に押し並べて「コンテンツ」と呼んでよいのだろうか。
 
商品棚に陳列されている形態は同じだとしても(例えば「CD」)、ビートルズとブラームスは違う。
同じブラームスの交響曲の1番のCDだとしても、Aフィルハーモニーの録音とB交響楽団とでは違う。
5分39秒とうい尺(times)が同じ曲があったとしても、歌謡曲とスラッシュメタルでは違う。
 
一方、3時間の映画でも90分の映画でも、料金は同じだ。
さて、ここまで意図的に避けてきた言葉(表現)がある。
産業として創られ、消費活動として人に吸収される音楽、美術、文学、漫画やアニメ、ゲーム、料理、建築、自動車、家具、衣類、医薬品、農作物に狩猟採集の魚介類や鳥獣肉類、ありとあらゆるもの、これらは確かに「情報の中身」だ。
 
だけれども、これらは潰して整形されて人に提供されるわけではない。
これらは、いずれも「作品(work)」だ。作品は、1点1点が独特(unique)だ。
大量生産、大量消費されるものでも、それ自体は代替できない。
「ナスカレー」は「ナスっぽいものが入ったカレーっぽいもの」では置き換えできない。 
  
商品として「コンテンツ」と呼ばれ、扱われ、流通されるとき、ひとつひとつは表情を失うかもしれない。
市民一人一人には顔がないかもしれない。しかし人は一人一人が個別の存在。
子供は、親にとっては「作品」ではあっても「情報の中身(コンテンツ)」ではないだろう。
 
私が違和感を感じる「コンテンツ産業」という表現。
ひとつひとつが違う、だから受け入れられる、多様で個別の作品。
多様であるから多数が生まれ、作品には愛情が注がれるし、創作者(あるいは職人)には敬意が払われる。
 
価値がある。価値が分かる、知られている。
ときどき明星にように輝く傑作(masterpiece)も現れる。
 
コンテンツ産業というのは、送り手と受け手が、その価値を共有できることが根底にある。
愛情、情熱、真摯な態度、諧謔の精神、自分こそが天才だと思える強心臓、批判には臆病だがいつでも貪欲に受け入れる謙虚さ、そして、それらの矛盾を統合しながら、「なぜ」に解を与えようとすること。
 
こうした創作者の諸条件を超越してきた創作者が世に送り出すものを「ガワ」と「ナカミ」の中身に過ぎないと言うことに、私は抵抗を感じるのだが……。
 
ファンや支持者が支払う対価への理解。
必ずしもビジネスとしてのコンテンツの仲介者がファンでなくてもよい。ただしこの「理解」は必要だと私は考える。
  
とりあえず、今日考えたのはここまで。
また後日、じょじょに詰めていく。