------目次・要約------
■おどろいた2つのニュース
川崎で起きた「福島のごみ処理対応」を巡る市民の反応と、船橋で起きた避難者への偏見についての報道内容を振り返ります。
■2つの記事から見えること
共通項を考えます。「ちょっと考えれば安全だとわかる」範囲で。
■論理的コミュニケーションは「気づかせる」こと
上記のことは「ちょっと考えればわかる」のに、なぜ考える事ができなくなってしまっていたのか。わたしは論理的コミュニケーションの不備だと考えました。
■ちょっとブレイク 「論理的○○」のシリーズ
ちまたに溢れる論理的○○を整理してみました。
■疑心暗鬼を防ぐには
安全は論理的に説明できるが、安心を受け手側に感じてもらうのは難しい。どれくらい難しいのか、ということについて考えます。
■けがれ、みそぎ、はらい
上記で考えて来た論理的なことは「安全」を説明する手法。
では、「安心」を証明するにはどうすべきか。
「見えないものへの恐怖」は「けがれ(穢れ)」。対処法は「みそぎ(禊ぎ)」と「はらい(祓い)」。
べつにスピリチュアルな話ではなくて、安心は「気持ち」へ対策、つまり教育と報道だと考えます。
----目次はここまで-----
■おどろいた2つのニュース
昨日、非常に気になった記事が2つあった。
1つめ。
「子供が心配」…福島ごみ処理支援で川崎市に苦情2000件超」
http://
2つめ。
「放射能怖い」福島からの避難児童に偏見」
http://
ご存知のない方に3行で説明すると、次のようになる。(記事から抜粋)
[1]
川崎市市長が福島県を訪問し、がれきなどの処理の協力を申し出た
↓
市役所に苦情が殺到。「放射能に汚染されたものを持ってくるな」
↓
川崎市は「放射能を帯びた廃棄物は移動が禁止されているため、市で処理することはない」
[2]
福島県から千葉県(船橋市)へ疎開した子供が公園で遊んでいた
↓
方言を耳にした地元の子供たちから「どこから来たの?」と聞かれた。兄弟が「福島から」と答えると、みな「放射線がうつる」「わー」と叫び、逃げていった
↓
子供はショックを受け、福島市へ再び避難
受け入れている小学校の校長は、「温かく迎えるのは言われなくても当たり前のこと」と強調。「放射能を巡る偏見や方言で児童を傷つけることがないよう注意深く見守ろうと、教職員に何度も話している
2の記事では他のケースとして「タクシー乗車拒否」「アパート入居に難色」「福祉施設や病院で検査証明書を求められた」を紹介し、専門家(放医研の柿沼志津子博士)のコメントを掲載している。
「「大人をまず教育したい。受け入れる側が心配すべきことは何もありません。むしろ心配しすぎる方が体に悪い」と指摘。「放射線について正確な知 識に基づき、『正しく怖がる』ことが大切です。もっと勉強してほしいし、私たちも理解を深めてもらえるよう努力しなければならない」と話す。」
■2つの記事から見えること
この画像は『はだしのゲン』の一コマ。
「はだしのゲン」で描かれている場面では、皮膚のケロイドなど、外見的な理由が大きかった、と言われている。
当時は放射性物質などに関する情報もなかっただろうから、漠然とした話だけが広まっていたわけだ。
「世界唯一の被爆国」を言い続けている日本国民。
しかし、その実態は「原子力について、世界的にみて、日本人が特に理解力が高い訳ではない」ということがよくわかった。
第二次世界大戦終結から60年以上が経過した「現代人」でもこの画像と同じ水準なのだ。
もちろん、わたしのレベルも「水野解説員」や「池上氏」のコメントの受け売りの知識程度であることは認めるが、少なくとも我が家ではそういうヒステリックな反応は起こらない。
それはなぜなら、ちょっと考えればわかることだからだ。
[1]の記事に関しては、「立ち入り禁止区域の物は、遺体でさえ持ち出せない。むしろ、立ち入れないから遺体捜索さえできない」。したがって「問題になるレベルの汚染物質は現場から出せない」
※川崎市の説明の通り。
[2]の記事に対しては、学校が子供に言ってもそうならないのは、親がおそらくそういう言動を家庭で見せているからだと考えられるから。
たしかに子供はときに残酷な偏見を持つ。「貧乏がうつる」とか「バイキン呼ばわりする」とか。
表面的には似ているが、これらのイジメ的行為と、今回の件は、ちょっと内容が違う。
児童の性格の問題ではなく、確実に「教育」の問題だ。
さらにいえば、大人が持つ意識を、子供が反映・実行している。
ちょっとカッコつけて言えば、「大人の幼児性と思考停止によるヒステリー」。
■論理的コミュニケーションは「気づかせる」こと
わたしは昨日、2つの新聞記事から上記のように考えていた。
原稿〆切の関係で、すぐにこの日記を書くのは後回しにしていたのだけれども。
ひとりのマイミクさん(日記が制限公開なのでお名前は伏せます)が、川崎のケースについて「論理的思考の欠如」を原因に挙げていらっしゃった。
わたしは同感だと思った。
日本人は、ほぼ間違いなく「ちょっと考えれば分かること」ならば、文字通り「ちょっと考える」だけで理解できる。
そんなことは、TVのクイズ番組で毎晩のように大勢が実践していることだ。
なのに「ちょっと考える」ことをしない人は多い。
背後にある物は見えない。
でも、振り向けば見える。
振り向くという動作をするかどうかは、ちょっと考えてみるかどうか、に似ているように思う。
振り向ける人は、論理的思考が習慣のように身に付いている。
振り向かない人は、誰かが振り向かせる必要がある。振り向きさえすれば、自分で探し物を発見できるのだから。
わたしは、「振り向かせること」は論理的コミュニケーションだと思っている。
情報には「発信」と「受信」がある。
受信側がどう受け取るかを想定した上で、発信側は、受信側が陥るかもしれない穴を先回りして塞ぎ、誤解を防ぐ。
相手とどのように対話するか。
自分の意思をどうやって伝えるか。
受け手側の水準に適合するように、言い方を工夫する。
論理的コミュニケーションは、けっして詭弁や誘導ではなく、「情報の受け渡し」というバケツリレーを成功させるための方法論。
つまり、わたしは川崎市側の発表の仕方に問題はなかったか、あるいはこの方針を伝達した新聞・TVの言い方に不足はなかったか、といったことも含めて追跡してみたいと思う。
ちょっとブレイク ■「論理的○○」のシリーズ
「論理的○○」にはいくつかの派生パターンがある。
以下はわたしの理解。(誤りがあればご指摘ください m(_ _)m)
いずれのスキルについても、わたしは1合目付近をうろうろしています。精進! 精進! (^^;
「論理的思考」ロジカル・シンキング
・筋道をたてて考える事。
・階段を1段ずつ登るように、考える力。
・脈略のないつながりに即座に気づき、落とし穴を避ける。
「論理的傾聴」ロジカル・リスニング
・相手の発言内容と、発言された状況の両方を併せて考えながら聴く。
・文字通りの主張内容だけでなく、背景なども速やかに聞き取る力。
・昔風にいえば、観察眼とか感受性とも。
「論理的コミュニケーション」
・論理的に物事や情報を伝える力。
・論理的に相手の言う事を聞く力。
・ただし、感情を無視することではない。相手が感情的になっている場合は「目隠しをされて怯えている」状態だと考え、一層怖がらせるよな理屈で問いつめたりしない。まずはその目隠しを取ってあげることから。
「論理的記述」ロジカル・ライティング
・論理的に書く。
・矛盾なく。ヌケモレなく。筋道を立てて書く。
■疑心暗鬼を防ぐには
上記のように、論理的にコミュニケーションをすることは、誤解にもとづく偏見や差別を予防し、パニックを回避する方法であると、わたしは考えている。
だけれど、「安全」を連呼されても、本当にそれを信じる人は少ない。
だれでも「騙されたくない」という思いがあるから、安全を信じるどころか、かえって不安を増大させることもある。
疑心暗鬼の語源は「疑心、暗鬼を生ず(疑い続けていると、暗闇を見るだけで鬼がいるかのように見えてくる)」。
公式発表を疑い続けていると、発表自体が隠蔽のための偽装工作だと思えてくる、という仕組みなのだ。
つまり、どれほど論理的に「安全」を訴えても、心理的に「安心」がない限りは、論理的な理解は得られない。
わたしはそう思っている。
疑心暗鬼を予防し、安全を十分に理解してもらうには、「安心」が不可欠なのだ。
実は本題 ■けがれ、みそぎ、はらい
では、安心はどのようにして得るのか。
菅総理が厚生労働大臣だったころ、「カイワレ大根が危険」という事件が発生し、その騒動を収束させるべく、菅元大臣は「カイワレ大根をムシャムシャ食べる」というパフォーマンスをやった。
厚生省のおかげでカイワレ大根が売れなくなった農家や関係者は、「大臣が食べたのだから安全」だと、「安心してください」とアピールし、溜飲を下げた。
安心が必要なのは、別に日本人に限った話ではない。
でも、「カイワレ大根を食べる」とか、最近では枝野官房長官が「福島県産ホウレンソウを食べる」といったパフォーマンスによって、国民を安心させようとしているのはなぜか。
科学的なデータに基づいて「健康に害はない」とすれば、「論理的に考える」国民なら納得しそうなものだ。
しかし「自分も食べるから国民も食べてください」というパフォーマンスを行う。
わたしはここに、日本人の「水に流す」発想を思い出す。
「水に流す」は、リセットして人や物との関係をやり直すのたとえだが、パフォーマンスという「水」で、「疑い」を流そうとする。
ここえいう「疑い」とは、対象の野菜が「汚染されているらしいという疑い」だ。
汚染とは、泥がついているとかいうものではなく、「目に見えないものへの恐怖」であり、ちょっと古い言い方をするならば、「けがれ(穢れ)」。
べつにスピリチュアルな話ではなくて、安心は「気持ち」へ対策だと考えれば、けがれという拭えない不安をどうやって無くすかが、安心への対応策なのだ。
けがれへの対処法は「みそぎ(禊ぎ)」と「はらい(祓い)」。
要するに、「水洗い」と「ホコリを払い落とす」という掃除の基本を行うということ。
野菜を水洗いする話ではない。
「放射能が伝染(うつ)る!」とか「放射能汚染物質を持ってくる気か」といった誤解を取り除く(みそぎ・はらい)ということだ。
安心を与えるのは、そういうことなのだと、わたしは考える。
無理解を理解に変えるのは、安全を説得することであり、「論理」の力がいること。
一方、得体の知れない恐怖といった気持ちの悪さを取り除くには、安心してもらうために「疑いを晴らす」ことが必要。「疑われない」ためには「信じられる」ことが必須。
新聞記者やTVカメラマンが退避区域から一斉に去ったことも、読者や視聴者が感じる「気持ち悪さ」につながっているのではないか。
ちょっとコジツケかな? 本題に入ってから、自分の言葉が鈍っている感じがする。力いっぱい書こうとしているのに。
それだけ「安全の説明(発信側の努力)」は容易く、「安心してもらう(受信側の気持ち次第)」は難しいのかもしれない。
それだけ今回の船橋と川崎で起きた事は、放射能という「見えないものへの恐れ」への「市民の反応」の事例として、「気持ちへの対策」つまり教育と報道の重要性を感じた。
また「汚染」を、無意識に「けがれ」と認識しているであろう日本人の精神性についても考えるきっかけになった。