聴いたことも、考え、そしてまとめないかぎり、シェンツァ(サイエンス)とはならない(マキアヴェッリ) 思考、知識は第一次的である。その同種を集め、整理し、相互に関連づけると第二次的な思考、情報が生まれる。これをさらに同種のものの間で昇華させると第三次的となる(外山滋比古) などなど考えつつ、読書メモ。
2011年4月27日
インテリの悲観論
■「?」を片手に持って読む
どれほど豊富なデータと確かなロジックに裏打ちされていても、わたしはインテリが書く悲観論や絶望的観測をあまり信用できない。
もちろん書かれている内容を否定するわけではない、崇拝するように頭から信じ込むことができないだけ。
筋道が立っていればいるほど、作為的誘導を疑ってしまう。
完成度が高い論理ほど、頭を垂れて拝聴したりしない。
直視して、相手と目を合わせて「ホントかな?」と常にクエスションマークを左手に持ちながら読む。
著者の「どうだ、この国の社会はひどいだろう。俺が暴いたゾ」っていう自慢げな表情が透けて見えるからかな。
それとも、わたしが疑り深いだけかけかな……
と思ったが。
■とはいえ非インテリの悲観論は一層信用できず
非インテリが描く悲観論は、へんに矛盾していたり、破綻していたり、もしくはあからさまなデータの操作があったり、あるいは既存資料の無視が横行したりするのでなおさら読むに値しない。
なんだ、わたしがわがままなだけだった。
もしくは、鵜呑みをしたくない、咀嚼して飲み込みたい、という欲求があるだけか。
インテリ・非インテリ以下のわたしが言うんだ、間違いない。
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