聴いたことも、考え、そしてまとめないかぎり、シェンツァ(サイエンス)とはならない(マキアヴェッリ) 思考、知識は第一次的である。その同種を集め、整理し、相互に関連づけると第二次的な思考、情報が生まれる。これをさらに同種のものの間で昇華させると第三次的となる(外山滋比古) などなど考えつつ、読書メモ。
2011年5月22日
夢の中のフェニーチェ歌劇場とヴェネツィアのグーグルストリートビュー
咳止めのために薬を飲んだ。
もちろん薬は食後に飲むので、満腹からくる眠気と相まって、透明な無気力感が体を包む。
* * *
うとうとしてきた。わたしは行った事もないヴェネツィアの路地裏の太鼓橋のそばで、どっちが上流とも下流ともわからない小さな運河を眺めていた。フェニーチェ歌劇場の二番ファゴット奏者が急病となり、代打として仕事をした帰りだ。
演目は『ナブッコ』。本当のわたしはこのオペラの「序曲」を1回演奏したことがあるだけで、この作品の全容をよく知らない。
特に演奏で大チョンボをしたわけではないが、居場所がない感じがした。
水がそばを流れる場所は好きだが、自分はこの町にはなじめないように思えた。
周囲は明るいが太陽は建物に隠れて見えず、光のくる方角も不明瞭な陰影のなかに溶けはっきりしない。町は、カーテンの向こうで昼寝をしている。
* * *
そういえば自動車が乗り入れ出来ないヴェネツィアで、グーグル・ストリートヴューはどのようなサービスを展開しているんだろうと思ってアクセスしてみた。
わたしの予想は乳母車タイプの “グーグル・スト・カー” が徘徊して撮影してるのでは、というものだったが、実際はユーザー投稿された写真が点々と配置されてリンクされているというものだった。
同一の場所を撮影しているものは、それぞれがズームイン・ズームアウトやアングル違いといったものとしてまとめられ、画面上で行き来できる。
これはこれで面白いが、残念ながらグーグルストリートヴューで疑似体験できる「歩いて移動する感じ」や「振り向いて周囲を見渡す感覚」は薄い。
* * *
ヴェネツィアで走行可能な「クルマ」は、乳母車、車椅子、それに子供用の自転車だけだと聞いた事がある。
だからわたしはこの町はクルマの騒音のない町なのだろうと思っていたが、実態はモーターボートのディーゼルエンジンの音が響く町だと後で知った。
加えて、密集する教会で鳴らされる鐘が、運河の水面にも大反響するつくりの町であるとも。
静かな環境は水辺には少ない。探そうとしたら、大通りからはずれた場所へ引っ込まなければ。
わたしの実家は国道14号線とJR総武線の両方から中間の位置にあり、周囲の家々は樹が多い庭のある一戸建ばかりという静かな環境だ。
降り出した雨の葉にあたる音――小太鼓の表面に小さい豆をパラパラと撒くような音がはっきりと聞こえるほどの閑静さ。
そういえば、実家の近くにオーボエを嗜んでいる人がいるらしい。
夕方になると、音階や基礎練習を練習する音がよく聞こえる。
あるときは『韃靼人の踊り』を練習している日もあったな。
* * *
画像はグーグルストリートビューでの様子。
水色の点が撮影ポイント。
右の写真の奥の建物がフェニーチェ歌劇場。
2011年5月9日
吹奏楽コンクールで感心したこと
中学生くらいのとき、「吹奏楽コンクールってすごいな」と感心したのは、「課題曲があり、毎年新作が委嘱される」ってことを知ったとき。
毎年、新しい作品が生まれていているのはすばらしいな、と思った。
まだ、だれも聞いた事がない音楽を演奏する、というのは、どんな気持ちなのだろう、と考えもした。
小・中学校くらいのオーケストラの部活では、ウィリアム・テル序曲とか、運命の力序曲とか、フィンランディア、「運命」第1楽章、「新世界より」 第4楽章、木星、こうもり序曲とかといった、そういう定番のほかに、「常識的にあまりやんねーだろ」っていう選曲もときどきあって、愉快だな、と思ってい た。
もちろん、コンクールの規定である7分(8分だったかな?)に合わせるために、作品は「編集」(編曲ではない)をされて、エッセンスだけ取り出し たような状態で演奏される。(←ポジティブに解釈した場合の表現。ネガティブに解釈すれば「作品をダウンサイジングして、ツギハギだらけにする」とも言え る。コンクール運営の事情とはいえ「これってどーなのよ」と感じた小5の夏。)
もちろん規定の制限時間におさまる作品はそのまま演奏されるのだろうけれど。
だからこそ、学校の定期演奏会ではシンフォニーは全楽章を演奏することに意義があると感じていたし、組曲は可能な限り全体像が見える形で発表することが是だと思っていた。
まあ、そんなわけで、「委嘱新作」がある吹奏楽の文化への貢献度(=作曲家に仕事がある! 後世に残るレパートリーが毎年増える!)って、すごいな、と感心していたわけ。
よく考えたら、合唱も同じか。
進学してもその後はオケよりもバロック合奏と小編成のアンサンブルに取り組む機会の方が増えていったのでした。
高校生のとき、吹奏楽編成も部活(オーケストラ部の臨時編成)はあったけど、わたしの活動を比率で表してみると、
・バロック:6
・バロック以外時代のソロorアンサンブル:2
・オーケストラ:1
・日本語のふつうの合唱:0.6
・ルネサンスの四線譜とかネウマ譜の合唱:0.37
・吹奏楽:0.03
(合計:10)
くらいだったように思う。
※そんなわたしは、昨年はじめてフルサイズの吹奏楽のステージに乗ったわけでした。
毎年、新しい作品が生まれていているのはすばらしいな、と思った。
まだ、だれも聞いた事がない音楽を演奏する、というのは、どんな気持ちなのだろう、と考えもした。
小・中学校くらいのオーケストラの部活では、ウィリアム・テル序曲とか、運命の力序曲とか、フィンランディア、「運命」第1楽章、「新世界より」 第4楽章、木星、こうもり序曲とかといった、そういう定番のほかに、「常識的にあまりやんねーだろ」っていう選曲もときどきあって、愉快だな、と思ってい た。
もちろん、コンクールの規定である7分(8分だったかな?)に合わせるために、作品は「編集」(編曲ではない)をされて、エッセンスだけ取り出し たような状態で演奏される。(←ポジティブに解釈した場合の表現。ネガティブに解釈すれば「作品をダウンサイジングして、ツギハギだらけにする」とも言え る。コンクール運営の事情とはいえ「これってどーなのよ」と感じた小5の夏。)
もちろん規定の制限時間におさまる作品はそのまま演奏されるのだろうけれど。
だからこそ、学校の定期演奏会ではシンフォニーは全楽章を演奏することに意義があると感じていたし、組曲は可能な限り全体像が見える形で発表することが是だと思っていた。
まあ、そんなわけで、「委嘱新作」がある吹奏楽の文化への貢献度(=作曲家に仕事がある! 後世に残るレパートリーが毎年増える!)って、すごいな、と感心していたわけ。
よく考えたら、合唱も同じか。
進学してもその後はオケよりもバロック合奏と小編成のアンサンブルに取り組む機会の方が増えていったのでした。
高校生のとき、吹奏楽編成も部活(オーケストラ部の臨時編成)はあったけど、わたしの活動を比率で表してみると、
・バロック:6
・バロック以外時代のソロorアンサンブル:2
・オーケストラ:1
・日本語のふつうの合唱:0.6
・ルネサンスの四線譜とかネウマ譜の合唱:0.37
・吹奏楽:0.03
(合計:10)
くらいだったように思う。
※そんなわたしは、昨年はじめてフルサイズの吹奏楽のステージに乗ったわけでした。
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