■日本式募金活動
アメリカなどのTV番組をみると、「募金するためにバイトをしてそのお給料を送る」というシーンをしばしば見かける。
子供たちも『自分にできること』を見つけ、実行していると思える。
あるいは周囲の大人が適度にアドバイスをしているのだろう。
「お小遣いが足りないなら、働いて、自分のお金を寄付するのよ」って。
一方、日本。
街頭・駅前で
「ボキンボキン!オネガイシマスオネガイシマス!」
と大声を出している子らをあまり好きになれない。(´・ω・`)
それは本当に『きみにできること』なのか?
善意ではある。
だが、その「善行」という立て看板をはずすと、行為の本質は他人の金をせびる行為だ。
■街頭・駅前でできること
「日赤への義捐金の振り込み方」チラシを配るとか、
「学生のみんな! バイトして金を送ろう!」と訴えるとか、
そういう方なら評価する。
辞書にはそういうことは、『啓蒙』という言葉として載っている。
群れてカロリー消費して「今日はボクたち頑張ったね感を満喫」してるのではないか?
「労働」をするのと同じように、“雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ” に その街頭に立つ自信はあるのか?
「The Big Issue」を売るオジサンたちと同じように街路に立って、黙々と募金活動をし続ける気概はあるか?
■エネルギーと時間の費用対効果
小額でも集まれば大金になるのはわかる。
だから効果ゼロとはいわない。
でも時給換算して、「若い学生たちのエネルギーと時間」の投資対効果として、適切なのかは疑問。
一生懸命勉強して、一日も早く、国家を動かせる権限をもつ政治家/公務員を目指すとか、事業を成して利益を還元する実業家になるとか、そういう目標をもって「その若いエネルギーと時間」を使う方がいいのではないか?
「ソフトバンクの孫社長は100億円を寄付した。僕はそれ以上を寄付できる大人になる」とか
「総理大臣になって非常事態の迅速解決を最優先するリーダーになりたい」とか
そういう方が、わたしは好きだな。
■「いま」のことは「いまの大人」の仕事
義捐金は「いま必要とされている」から、そんな悠長なことはできないとか、そう言う人もいるだろうけれど、「非常時に備えられる大人」を目指すことが本分ではなかろうか。
ならば、「いま」に対し、「備えていた大人」はどれほどいるのか。
この大人たちを反面教師にする考えはどうだろう。
善意や義勇心には共感する。
『きみにできること』を考えてもらうにはどうしたらいいだろう。(´・ω・`)
■被災地はがんばるな、非被災地はがんばれ
被災地にガンバレガンバレ言うのはほどほどにしたい。
ガンバらなくてもいい暮らしに一日も早く戻してあげますよ、そういう声を掛けてあげる方がいいのではないか。
張りつめた糸を、「もっともっと」と引っ張れば、切れてしまう。
四六時中緊張している人々に、「もうがんばらなくていいんだよ」と言える日をたぐり寄せるのは、「非被災地住人のがんばり」にかかっているのでは。
でもその「がんばり方」は、街頭・駅前でカロリー消費することだけではないはずだ。
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