2011年12月13日

イランに出張する夢

  
 イランかどこか、西アジアに出張する夢を見た。 
 夢は着陸前の飛行機の機内から始まった。窓の外、眼下は海。金色の混じる赤いペイズリー模様のような朝焼けの海面が、ぬめりながらきらめいていた。 

■港 

 次のシーンは午前中の港。色とりどりの貨物コンテナが雲のない青空の下でじっとしている。あくびをするようなスピードで、クレーンが動いてコンテナの配置を変える。解かれる前のルーブックキューブがそこかしこに置いてあるような色の散らばりようだ。 

 地面は灰色のアスファルトではなく、明るい茶色。コンテナ群の反対側に視線をやると、地面と同じ色の倉庫が並んでいる。赤煉瓦倉庫のようなシャレた建物ではなくて、地面を90度垂直にしたような壁面。シャッターがあるとかろうじてわかるのは、つまようじで引っ掻いたように見える横シマの線が集まっている場所があるから。でも、そのシャッター、開くのかどうか、疑わしい。 

 町の方角に向かって歩く。わたしはときどき写真を撮るが、撮影機材はiPod touhch。一眼レフは撮っている姿が目立つのと、撮られる人々を刺激してしまうから、利用できなかった。ぶらぶらと歩くヒマな散歩人を装いながら、取材をしていく。iPod touchなら「音楽を聴く機械だ」でごまかせるから、これなら使える。なにより、わたしはバッグを持たず、物品はすべて肌身に着けて移動している。 

■ビル 

 町の中を歩く。ひときわ背の高いビルがあったのでそこへ近づく。外壁はまたも明るい茶色。そばへ行ってみると、木星の表面の模様を貼付けたような大理石の壁だった。光を吸収していた港の建物と違い、このビルは太陽光を反射していて、内側から発光しているようにも思えた。 

 通りから中へつづく短いのぼり階段をつたって入ると、中二階のバルコニーに出た。バルコニーから下をのぞくと、なじみのある日本のコンビニの看板や、コダックのロゴのついたDPEショップなどが見えた。バルコニーに沿って歩くと、日本のマンガの専門店があったので、覗いてみる事にする。 

■マンガ店のインド人店長 

 店の中に、見知った顔があった。店のロゴが入った濃紺のエプロンをしているインド人、彼のことは、どこかで見た事があるぞ。そうだ、以前、彼が日本に留学していたときに知ったんだ。確証はないけれど、きっと彼だ。と思ったが、わたしは友人を訪ねにきたのではないし、あんまり声高に話すのもはばかれたので、しずかに店に入って、店内を観察する。 

 もちろん、iPod touchで撮影することも忘れない。わずかにしてしまうシャッター音を揉み消すために、スピーカーを指で抑えながらシャッターを押す。これを右手だけで行う。フォーカスや画角、そういったものはあまり気にしない。デジタルズームは画質が下がるだけなので利用せず、アップで撮りたければ、被写体に接近あるのみ。 

 しかしここでは動画撮影を行った。この店に入ったところから撮り始め、店内を巡回してみる。見上げると、天井に近い壁には日本の漫画のポスターがずらっと並んでいる。 

 例のインド人がこちらに気づいたようで、ちらちらとこちらを見ている。わたしは視界の端で視線を受け止めるが、目は会わせない。そもそも東アジア人の少ない場所なので、単に外国人だと思ってマークしているのかもしれないが。 

 店は20畳くらいありそうなスペースに、胸の高さまでの本棚が並んでいる。漫画本は日本語タイトルのままだったり、絵柄を縮小して余白に現地語タイトルを書いているものなどさまざまだ。(その文字がアラビア語なのかペルシャ語なのか、わたしには区別がつかない) 

 どのような漫画が人気なのか、インタビューを試みたかったが、後日に回すことにする。まずは下調べと思って店のようすを自分の目で十分に観察したうえで、店を出た。 

■地震 

 ビル内のバルコニーに出た。柱にもたれて、とりあえず撮った写真をチェックする。やましいことはしていなが、“取材班御一行様” というような出で立ちでもないので市民にまぎれて隠密取材をしている感じはしている。 

 その時、足下がぐらつきだした。とっさに後ずさり、両手を柱について、頭上を見上げる。天井までは数メートルの高さがあって、幸い、落下物の危険はなさそうだ。 

 バルコニーの下がざわついた。周囲に気をつけつつ、首を伸ばして覗き込むと、蛍光色の赤や緑の帽子を被った男の一団が、正方形に整列しているのが見えた。彼らの前には何やら受け付けブースのようなものがある。看板にはTVで見るような衣装をつけた女性の等身大パネル。アイドル歌手のサイン会か何かに、“親衛隊”的なファンが集合して並んでいるのか。 

 ファンたちは地震によって多少の乱れを起こした物の、すぐに沈静化して整然とした列に戻った。わたしはその様子を写真に納めようとするが、 iPod touch の撮影機能がうまく起動せず、少し苛立ちながらもiPod自体を再起動する。この待ち時間の間にシャッターチャンスが去ってしまうのではと思うと気が気でない。 

 幸い、被写体予定の人々にはそれほど変化はなかった。ほっと胸をなで下ろすと、また柱のそばへ戻った。 

■夜 

 ビルを出ると、すっかり日暮れになっていた。日没は早い、そう感じながら見渡すと、目抜き通りの先、水平な視線のかなたは濃いオレンジ色の帯が横たわっているが、視線の角度を10度も上げれば墨色混じりの濃紺の空。 

 わたしは今夜の宿泊先を探す事にした。ここで少し夢の記憶は曖昧になるのだけれど、わたしは電話ボックスに掲示されていたホテルガイドのチラシを参考に、適当に安くて近そうなホテルを選んだように思う。 

 電話に出たのは中国語なまりっぽい、尻上がりのイントネーションの英語を話すスタッフだったが、英語力はわたしの方が低いので予約を取るだけで苦労した。なにより、自分の氏名のスペルを伝えるがやっかいだったが、とりあえず予約は取れたようだ。 

 しかし問題は、ホテル名の読みが分からないということ。案内チラシはペルシャ語で名前が書いてある。写真には北京語のような看板が写っている。ネオンが濁っていて文字の判別はやりずらい。わたしはとりあえずその北京語の文字をわかる範囲で控えておいた。アラビア文字は筆順がわからないので、写真を撮っておく。 

■元留学生 

 電話ボックスを出たところからまた少し記憶が曖昧になるが、わたしが残照のかすかに残る公園でサンドイッチをほおばっていると、わたしの実家にホームステイをしていたことがある元留学生の女性と偶然にもばったり出会う。聞くと、自宅がすぐ近くらしい。(もちろんこれはこの夢のなかでの話で、実際にイランからの女性留学生にわたしが実家で会った事はない) 

 家につくと居間に案内された。しかし彼女は日本語がカタコト。わたしは英語がカタコト、ペルシャ語は定型の挨拶だけ。この後は予約を取ったホテルへ行くつもりだと告げると、当然のように、どこのホテルだと訊かれる。実は読み方が分からないんだと言って、案内チラシを撮ったものを見せると、彼女は「ああ」とつぶやいてPCに向かってインターネット検索をはじめた。 

 ホテルの名前は「サモ・ハン・キン・ポー」らしい。ランクはこのあたりでは中の下、外国人バックパッカーなどが利用するいわゆる安宿の一種だそうだ。朝食はつくがメニューは乏しい。イギリスのB&Bの食べ放題ロールパンのようなものはない。形はナンに似て平べったいパンが篭にどさっと入った状態で適当に置いてあるか、日によってお粥の大鍋がどんと朝食コーナーに放置されているものを適当にお椀にすくって食べるらしい。栄養バランスは考えられていないが、食後用のコーヒーはある。紅茶はない。 

■留学生の姉 

 ホテルの場所と移動ルートについてレクチャーを受けていると、背の高い女性が居間に入ってきた。姉だと紹介された。お姉さんが何を言ったのか、正確なセリフは忘れてしまったが、かなり流暢な日本語で話す。留学生本人よりもはるかに上手だが、「……なわけですから」を挟みながらどんどん会話を続ける。話しが途切れないのだ。これは微笑ましく聞いていた。きっとこの人は何語でしゃべってもこんな風に話すのだろう。筆跡のつながった文字のように。 

 覚えているのは「なんでそんなホテルを取ったんですか、もっといいホテルなんていくらでもあるのに」というようなお叱りをうけたことと、「ドバイとイランの日本企業で働いていた」という日本語環境にいるという話し。 

 夢はこのあたりで醒めた。 

ビュッフェ・クランポンのシール

なんとなくTwitterにupしたら、なんだか好評だったのでこちらにもupしておく……(あとで自分で探しやすいように) 


シールの横幅は12cm。 
貼ってあるのはMoleskin(モレスキン)のラージ。 




2011年6月7日

ゲーム音楽を合唱する練習の夢

昨日はみょうに疲れていたので、仕事を途中にして午前0時過ぎに布団に入った。 

珍しく、視覚的な要素の少ない夢を見た。 

夢のなかで、わたしは数人の女性歌手、1人のバスかバリトンの歌手、それに1人のチェンバロと1人のリコーダー奏者と一緒に、ゲームのBGMを合唱で表現する練習をしていた。 

曲目はファイナルファンタジーIIIの「禁断の地エウレカ」。 
ファミコン版 

DS版 


女声がコーラスでメロディを「Sha-la-la-la-la-」と歌う。 
そのコーラスは、うっとりするほど官能的。 

官能と表現したのは、綺麗や技巧だけでなく、背筋がしびれるほどのツヤとテリを感じたから。 
力強くてしなやか、熱せられたガラスのように引き伸ばされるとなめらかに反応するが、その姿を空中にとどめる。 

2、3人しかいないはずが、耳元では大合唱のように響く。 
完璧なシンクロをしているのだろう、単でも多でもなく、「一体」になっている感じ。 
わたしはテノールとして女声のメロディの底部で「ha, ha, ha, ha,」というような伴奏形を歌っていた。 

最初は合唱だけの練習、バスの男性歌手が2か3コーラス目でボイスパーカッション的な演出で参加。 
ボイスパーカッションといってもラップ的な“ドラムセット”ではなく、ティンパニの潤った音とスネアドラムの高く響く乾いた音を出すようなドラミングだった。 
水平に広がっていた合唱のサウンドは、見上げるような垂直の響きを得た。 

男性歌手はドローン音的な伴奏に変わった。空間にさらなる奥行きが出た。 

次はアルペジオを鳴らす器楽が加わって、この曲は全体像を現した。 
アルペジオは細かいが、音符は綾のようにつながっているので、うるさくない。 
驟雨のようなムラのない音。大きな綿のかたまりのようなリコーダーとチェンバロの音。 


はじめは極めて小さい声で、しだいにフルボイスへ。 
なんて気持ちのいい練習なのだろうと感じた直後、目が覚めた。 
夢をみるのは明け方のことが多いのでもう朝かと思って時計を見たら2時前だった。 

2011年6月3日

鈴木秀美さんのことば

リコーダー演奏の友人からTwitter経由でご紹介いただいた、鈴木秀美さんのメッセージ記事が印象深かったので日記に引用してメモ…… 

全文はこちら。 
http://alios-style.jp/cd/app/index.cgi?CID=blog&TID=PAGE&dataID=00658 

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優れた音楽が私達に与える深い想いや感動には大きな力があり、命の糧、生きる勇気ともなるのだということを思わずにはいられませんでした。 
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音楽を聴いている間、私達はしばし現実を忘れ、悲しみや痛みから少し遠ざかることができるのです。音に耳を傾けているとき、私達の心はどこか別の場所へ運ばれているのです。それは現実逃避などではなく、そういう時間を持つことによって、また前向きにものを考え、目の前の事態に対処してゆく力も生まれてくるということです。 
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周りで数々の演奏会が「自粛」されキャンセルされ始めたとき、これはおかしい、と私は強く感じました。 
もちろん、音楽は食べ物や毛布の代わりにはなりません。しかし、人間の「生」を支えるものが何らかの意味での「精神」であるなら、それを支える力にはなるはずです。 
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音楽家は弾く以外の能のない人種ではありますが、単に「音」を売っているのではなく、大袈裟に言えば夢や憧れ、空想、考え、そして希望を売っていると思っています。夢や希望は「普通に戻るまで要らない」とは言えないもの、むしろその逆です。 
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2011年5月22日

夢の中のフェニーチェ歌劇場とヴェネツィアのグーグルストリートビュー


咳止めのために薬を飲んだ。 
もちろん薬は食後に飲むので、満腹からくる眠気と相まって、透明な無気力感が体を包む。 

 * * * 
  
うとうとしてきた。わたしは行った事もないヴェネツィアの路地裏の太鼓橋のそばで、どっちが上流とも下流ともわからない小さな運河を眺めていた。フェニーチェ歌劇場の二番ファゴット奏者が急病となり、代打として仕事をした帰りだ。 

演目は『ナブッコ』。本当のわたしはこのオペラの「序曲」を1回演奏したことがあるだけで、この作品の全容をよく知らない。 

特に演奏で大チョンボをしたわけではないが、居場所がない感じがした。 
水がそばを流れる場所は好きだが、自分はこの町にはなじめないように思えた。 

周囲は明るいが太陽は建物に隠れて見えず、光のくる方角も不明瞭な陰影のなかに溶けはっきりしない。町は、カーテンの向こうで昼寝をしている。 

 * * * 

そういえば自動車が乗り入れ出来ないヴェネツィアで、グーグル・ストリートヴューはどのようなサービスを展開しているんだろうと思ってアクセスしてみた。 

わたしの予想は乳母車タイプの “グーグル・スト・カー” が徘徊して撮影してるのでは、というものだったが、実際はユーザー投稿された写真が点々と配置されてリンクされているというものだった。 

同一の場所を撮影しているものは、それぞれがズームイン・ズームアウトやアングル違いといったものとしてまとめられ、画面上で行き来できる。 
これはこれで面白いが、残念ながらグーグルストリートヴューで疑似体験できる「歩いて移動する感じ」や「振り向いて周囲を見渡す感覚」は薄い。 

 * * * 

ヴェネツィアで走行可能な「クルマ」は、乳母車、車椅子、それに子供用の自転車だけだと聞いた事がある。 

だからわたしはこの町はクルマの騒音のない町なのだろうと思っていたが、実態はモーターボートのディーゼルエンジンの音が響く町だと後で知った。 
加えて、密集する教会で鳴らされる鐘が、運河の水面にも大反響するつくりの町であるとも。 

静かな環境は水辺には少ない。探そうとしたら、大通りからはずれた場所へ引っ込まなければ。 

わたしの実家は国道14号線とJR総武線の両方から中間の位置にあり、周囲の家々は樹が多い庭のある一戸建ばかりという静かな環境だ。 
降り出した雨の葉にあたる音――小太鼓の表面に小さい豆をパラパラと撒くような音がはっきりと聞こえるほどの閑静さ。 

そういえば、実家の近くにオーボエを嗜んでいる人がいるらしい。 
夕方になると、音階や基礎練習を練習する音がよく聞こえる。 
あるときは『韃靼人の踊り』を練習している日もあったな。 

 * * * 

画像はグーグルストリートビューでの様子。 
水色の点が撮影ポイント。 
右の写真の奥の建物がフェニーチェ歌劇場。 
  
 

2011年5月9日

吹奏楽コンクールで感心したこと

中学生くらいのとき、「吹奏楽コンクールってすごいな」と感心したのは、「課題曲があり、毎年新作が委嘱される」ってことを知ったとき。
 
毎年、新しい作品が生まれていているのはすばらしいな、と思った。
まだ、だれも聞いた事がない音楽を演奏する、というのは、どんな気持ちなのだろう、と考えもした。

小・中学校くらいのオーケストラの部活では、ウィリアム・テル序曲とか、運命の力序曲とか、フィンランディア、「運命」第1楽章、「新世界より」 第4楽章、木星、こうもり序曲とかといった、そういう定番のほかに、「常識的にあまりやんねーだろ」っていう選曲もときどきあって、愉快だな、と思ってい た。

もちろん、コンクールの規定である7分(8分だったかな?)に合わせるために、作品は「編集」(編曲ではない)をされて、エッセンスだけ取り出し たような状態で演奏される。(←ポジティブに解釈した場合の表現。ネガティブに解釈すれば「作品をダウンサイジングして、ツギハギだらけにする」とも言え る。コンクール運営の事情とはいえ「これってどーなのよ」と感じた小5の夏。)

もちろん規定の制限時間におさまる作品はそのまま演奏されるのだろうけれど。

だからこそ、学校の定期演奏会ではシンフォニーは全楽章を演奏することに意義があると感じていたし、組曲は可能な限り全体像が見える形で発表することが是だと思っていた。
 
まあ、そんなわけで、「委嘱新作」がある吹奏楽の文化への貢献度(=作曲家に仕事がある! 後世に残るレパートリーが毎年増える!)って、すごいな、と感心していたわけ。
よく考えたら、合唱も同じか。
 
進学してもその後はオケよりもバロック合奏と小編成のアンサンブルに取り組む機会の方が増えていったのでした。
 
高校生のとき、吹奏楽編成も部活(オーケストラ部の臨時編成)はあったけど、わたしの活動を比率で表してみると、

・バロック:6
・バロック以外時代のソロorアンサンブル:2
・オーケストラ:1
・日本語のふつうの合唱:0.6
・ルネサンスの四線譜とかネウマ譜の合唱:0.37
・吹奏楽:0.03
(合計:10)
くらいだったように思う。
 
 
※そんなわたしは、昨年はじめてフルサイズの吹奏楽のステージに乗ったわけでした。
 

2011年4月30日

なにがいけなかったのか

「なにがいけなかったのか」というタイトルで、例の読売新聞のヘンテコ記事に突っ込みを入れようと思っていた。

まず、イントロダクションとして、わたしがいかに新聞が好きであるかを語ろうとしたんだ。
 
あなたならわかってくれると思いますが、新聞はわたしにとって「読み書き」と「情報収集」の先輩たちの仕事の成果だから、多いに勉強になる。音楽の演奏に携わっている人が、コンサート会場に行ったりするのと同じことなんだよ。

で、その話の流れで、とはいえ新聞もヘンなところが多々ある。極端な例は、もはや新聞と読んでいいのかどうかさえ分からない、“エキサイティング新聞” こと東スポ。で、東スポがいかに面白いかを書き出したら1000文字くらい優にいきそうになったのでハッと気づいて、話題をゲンダイへと振ろうとしたら、いっそう収集が付かなくなってしまった。

なので新聞の話そのものはやめて、例のツッコミ記事だけを取り上げいたいと思う。
わたしがmixiチェックをしたとき、本当はツッコミどころを指摘するつもりだったのだけど、あまりに驚愕したので、驚きの言葉だけで字数が埋まってしまったのでした。

ちなみに下記がその記事。
読売新聞 2011年1月18日朝刊、かな。
(2011年1月17日03時08分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110117-OYT1T00025.htm
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情報管理大丈夫? 78大学がメールに民間利用

 学内のメールシステムに、グーグルなどの民間企業が無償で提供するクラウド型サービスを採用する大学が増えている。

 読売新聞の調べでは、少なくとも全国の78大学が導入。経費を節減したい大学側と、自社サイトの利用率アップを狙う企業側の思惑が一致した結果だが、データを管理するサーバーが海外に置かれるケースもあるとみられ、専門家からは情報管理の安全性について疑問視する声も出ている。

 読売新聞が全国の主要大学に聞き取り調査をしたところ、国公立大14校、私大64校がシステムの保守管理を一部または全部、企業に委託していると回答した。これは全国で800近くある大学の約1割を占める。

 2007年に日大がグーグルのシステムを採用したのが最初で、その後急増。導入すると、教職員や在学生、卒業生らにメールアドレスが付与され、スケジュール管理機能や、ネット上での文書共有機能も利用できる。アドレス表記は大学で独自運用していた時と同じで、部外者には企業が管理するものとは分からない。
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アンシィさんが指摘もしてくださってますが、なんか短くなってる気がしたら、記事後半が原文から削除されてしまっているようでした。

まあ、残ってる分の原稿だけでも十分に楽しめる。


>学内のメールシステムに、グーグルなどの民間企業が無償で提供するクラウド型サービスを採用する大学が増えている。

うむ。これは事実ですね。

>読売新聞の調べでは、少なくとも全国の78大学が導入。

「調べで」と来て「少なくとも」とは、これいかに。
2文目でいきなり体現止めですよ。

少なくとも78大学が導入を「した」、「しようとしている」、「しなかった」、「したらしい」、「したと答えた」、「したと他のサイトに載ってた」、「白書に出てた」。いろいろあると思うけど、「78大学が導入済みだ」とでも書けばいいのに。

あと、「採用」と「導入」は示している事実の範囲がわずかに異なるので、注意が必要。


>経費を節減したい大学側と、

「節減」だけが目的ではないよ。
大学では毎年、数千のアカウントが新規作成され、一方ほぼ同数が削除・停止される。
こうした作業は膨大だし、期間が集中しているので大変だ。
管理効率の向上ももちろん、自動化(機械化)できる部分を自動化して人的ミスを減らしたり、スピードアップをしたりすることが目的。
コストダウンは、こうした「本来の目的」に対する副次的なもの。
もちろん、コストアップになるなら、まず採用されない。


>自社サイトの利用率アップを狙う企業側の思惑が一致した結果だが、

サイトではなくてサービスね。
サービスは商品(法令とかの用語では「役務」)なので利用率アップというより、普及、つまり営業活動なわけで。

> データを管理するサーバーが海外に置かれるケースもあるとみられ、

主だったサービスが、みな海外のサービスだもの。
サーバが国内にあればいいのか、といえばそうとも限らない。
サーバの物理的所在地を問題にするのは、「管理者が自分でデータセンタ訪問して環境やマシンをいじりたい場合」なのでは?

そもそもクラウドのシステムにおいて、サーバの所在地は「ユーザーは知る必要がない」「サービス提供者は公開する必要がない」。

>専門家からは情報管理の安全性について疑問視する声も出ている。

はい、「情報源の秘匿」ですか。
どこの専門家だろう、そんなことをおっしゃるのは。
たぶん、この記事の論旨にとって都合がいいところだけを抜粋されているのでは、と、疑問視する声も出ている。(わたしが今ここで言っている)

安全性についていえば、サービス事業者は、その安全性こそが死守する対象なのだから、命がけで安全性を守るよ。

「民間がダメ」というなら、電話も「盗聴の恐れがありますから、会って密談しましょう」となるし、郵便・宅配便も「盗難・紛失・誤配送の恐れがありますから、手渡しを原則としましょう」となる。

つまり「サーバが海外=情報管理の安全性が低い」はこの記事でもっとも記事が低質であることを証明している部分。

学内にサーバ管理者を置く方が、よっぽど安全性が低いことを認識しているIT担当者が、せっせと予算ぐりを調整してアウトソースしてるんだよ。
そんなこと取材を通じて得られた情報のはずだ。

> 読売新聞が全国の主要大学に聞き取り調査をしたところ、

と言っているのだから。
この記者と担当デスクはサービス各社が公開している導入事例もきっと読んでいないに違いない。
あるいは読んだ上で無視したのか。
事例は宣伝物だからネガティブなことは書かれない。
読んだ上で、IT担当者に本音を探る取材をしたのか。

この記事が、「こうしたサービスが海外サービスで占められている」ことを問題提議しているなら、NTTデータとか富士通とかにハッパをかける意味があるだろうけどね。

それなら、METI(経済産業省)とか、総務省あるいは文科省が旗を振ってもいいことだと思う。実際にはやっているハズだ。わたしが知らないだけで。
 
 
 
……なんだかひとりで新聞にツッコミ入れてるヘンなヤツ。
これじゃまるで、いや、まさにヒマな人。 ,,Ծ‸Ծ,,

2011年4月29日

お口の利き方

義母の入院先の看護士のお言葉使いが気になってしかたないので、世間一般はどうなのかと「看護士 タメ口」で検索したら53万件もヒットした(重複も多いが)。 
 「看護士 言葉遣い」で検索しても19万件でてきた。 

タメ口をきいてくる看護士にタメ口で返したら相手が敬語を使い出した、というケースもあるようだ。 

http://ameblo.jp/pdn/entry-10170828549.html 
ため口と来たわけだから、私もため口でいっちゃおう!!! 「唐澤さん、受付済ませたの?」 「えっ、もう前に済ませてあるよ!」 「・・・えっ、そ、そうなんですか!」 突然、その看護師、敬語に変わった! なぜだろう・・・。 人のため口をきいて、ため口とため口という会話の状態がおかしいことに気づいたのでしょう。 

これは看護士同士の間でも強い違和感を感じている人も少なくないようだ。 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1451349944 
看護師をしています。率直にいうと、私は患者さんに対するタメ口が嫌いです。(中略)今いる高齢者の方たちは、認知症など障害を抱えながらも、懸命に生きて生活している。自分よりはるかに経験を積んだ大先輩に対し、看護師がどれだけ偉いというのでしょうか。(中略) この職業だから思うのか分かりませんが、看護師は言葉や接遇が雑だと思うことがあります。他の職種で、利用者、クライアントに対しタメ口で接する所があるでしょうか? 

親近感がわきやすいという理由で意図的に“タメ口”を利くという、“接遇戦略”をとっているケースもあるようだ。 
慇懃無礼な待遇や銀行窓口のような接客態度では行き過ぎだとは思うが、突然に友達扱いのような接し方は患者家族としてはギョっとする。 

家庭内で対応策を協議中…… 

必ずしもそういう病院・病棟ばかりでなく、「親しき仲にも礼儀あり」と思える口調の人も多い。 

そうか、「親しさを演出しようとして、無礼になっている」のかもしれない。 

2011年4月27日

インテリの悲観論

 
■「?」を片手に持って読む


どれほど豊富なデータと確かなロジックに裏打ちされていても、わたしはインテリが書く悲観論や絶望的観測をあまり信用できない。
 
もちろん書かれている内容を否定するわけではない、崇拝するように頭から信じ込むことができないだけ。
 
筋道が立っていればいるほど、作為的誘導を疑ってしまう。
完成度が高い論理ほど、頭を垂れて拝聴したりしない。
直視して、相手と目を合わせて「ホントかな?」と常にクエスションマークを左手に持ちながら読む。

著者の「どうだ、この国の社会はひどいだろう。俺が暴いたゾ」っていう自慢げな表情が透けて見えるからかな。
 
それとも、わたしが疑り深いだけかけかな……

と思ったが。
 

■とはいえ非インテリの悲観論は一層信用できず

非インテリが描く悲観論は、へんに矛盾していたり、破綻していたり、もしくはあからさまなデータの操作があったり、あるいは既存資料の無視が横行したりするのでなおさら読むに値しない。
 
なんだ、わたしがわがままなだけだった。
 
もしくは、鵜呑みをしたくない、咀嚼して飲み込みたい、という欲求があるだけか。
インテリ・非インテリ以下のわたしが言うんだ、間違いない。
 

2011年4月26日

アラマタ先生

わたくしの荒俣先生への敬意には一点の曇りもなくござ候。

http://www.1101.com/aramata_hiroshi/
【 ほぼ日刊イトイ新聞 - 目眩く愛書家の世界 】

愛書家は読書家にあらず。これ同意。
わたしは愛書家になれんことが比較的早く自覚せられた故に “一命を取り留めた” が、愛書家になッていたらそれこそ “死んでいた” 違いないと思います。
 
さてさて、わたくしもかろうじて読書家たらんとすれどもネ、iPod touch の豊平文庫が優秀過ぎてこれで青空文庫ばかり読んでいます。
といっても、他のことをしている時間のほうが長いので、そんなには読んでばかりでもないのですけど。

というかわたしのiPod touchのアプリは、産經新聞、豊平文庫、iTextPad、くらしの暦(あ、このアプリは荒俣先生監修だ)、それにPhoto、カメラ、 Twitterクライアント、ブラウザ、メールの稼働率が最も高くて、あとはファイル管理のアプリとゲームがちょこっと(2つくらい)入ってる程度にござ候……
新聞系アプリでいえば、「新’s(あらたにす)」がちょっと物足りない。

荒俣先生もすごい蒐集家だけど、西和彦さんもすごい。
本の収集は、「資本」と「ものをみる眼」の2つでオーヴァー。
あと「運と縁」が潤滑油になっているくらい。

むかし、ジョニー・デップが主演した「ナインスゲート」という本にまつわるミステリー映画(監督はポランスキー)がけっこう雰囲気があって好きだったのですよ。
 
「世界中の稀覯本を日本に収めてやる」くらいの意気込みがあるのでしょうね。
日本の宝飾コレクターのアルビオンアートさんは、「世界の宝を日本にうずめてやる」というコンセプトだと聞いたことがありますよ。
 
財力だけじゃ、ないんですよ、と思いませんか?
 
最後まで粘るのは、執着心でござ候へども、執着はときに破滅をも招き候。
「それでも地球は回っている」とガリレオ師匠もしぶとく粘ったように。

現代は、魔女狩りで火あぶりにならないから、まだマシな時代なのかしら?
1494年の「虚飾の焼却@フィレンツェ」イベントは今思うと、本当にもったいなかったですよね。

(ピンポーン)
……あ、だれか来たようだ。


……あ、そうですかー、いま、ないですねー……


アクセサリーなどの買い取り業者が来ました。
使わなくなった時計とかありませんか? と聞かれたので、「ないですねー」と答えましたよ。

参考までに値段を聞いたら、24金でグラム3000円くらいですって。
18金だと2500円くらい。

何かありますか? と聞かれたんで「いや、ないですねー」と言っておきました。
実際、ないし。

買い取りをしている、ということは、現金を持ち歩いているのかな? 家に入れて縛りあげて鞄を奪ったら現金強奪になるかしら。
それとも、玄関を開けさせて家に押し入る強盗なのかな。
 
 
東西線の秘境駅、BARAKI-NAKAYAMA の町で金鉱脈は見つかるのかな。
 
ちょっと “ことばあそび” が過ぎたようだ。仕事をします。

2011年4月25日

“普通”の価値観

「普通でない」ものが多い昨今、「普通である」ことは多いに誉めていると解釈してよい。

「不可とする要素が “特別には” ない」ことは、「満足」を意味し、その時点で評価は「良」である。あるいは「期待通り(の良さ)」。

「あえて欠点を探せばきりがない」だから、「あえて瑕疵や欠点を探さない(粗探しない)限りは合格」。

「普通」は、そうした価値基準において、満足のいく「並」。

しかし「普通の味ですね」といったら、「何の変哲も感動も賞賛もない感じ」がする。「普通に美味しい」と言うと、「十分に美味しい」と感じ取れるのが不思議だ。

かな。

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「普通においしい」でも、別にいいんじゃね!?
http://getnews.jp/archives/95578
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……またガジェ通か!
 

上を向いて

『上を向いて歩こう』はつくづく名曲だな、と思う。 
メロディも好きだが、個人的には永六輔による歌詞が特に好み。 

「上を向いて歩こう 
 涙がこぼれないように 
 思い出す 春の日 
 一人ぽっちの夜」 

いろいろな想像ができるし、解釈を断定できないところもいい。 

先ほど、ふと感じたイメージ。 
イマドキのビジネスマン風に。 

「上を向いて歩こう」 
⇒上昇志向を持ち、到達したい高み以外は見ない、遠くを目指す目的でのみ走る。斜面で上を見れば、自分より上位・先行の人しか見えない。追いつくよう努力しなさい。自分と同レベルあるいは下のレベルの人は視界から外して優越感は持つな。足下は見るな。 

「涙がこぼれないように」 
⇒案件を取りこぼさないように。 

「思い出す 春の日」 
⇒初心忘れるべからず。 

「一人ぽっちの夜」 
⇒平地で上を向いたらの他人の姿は見えない、自分の視界には空しかない、周囲の雑音を振り払って進みなさい。一人ぽっちの状況をあえて作り出しなさい。夜はネットを切断して一人の時間を持ちなさい。 

2011年4月24日

けがれ、みそぎ、はらい

※だいぶ長くなったので、目次と要約も作りました。m(_ _)m

------目次・要約------
■おどろいた2つのニュース
 川崎で起きた「福島のごみ処理対応」を巡る市民の反応と、船橋で起きた避難者への偏見についての報道内容を振り返ります。

■2つの記事から見えること
 共通項を考えます。「ちょっと考えれば安全だとわかる」範囲で。

■論理的コミュニケーションは「気づかせる」こと
 上記のことは「ちょっと考えればわかる」のに、なぜ考える事ができなくなってしまっていたのか。わたしは論理的コミュニケーションの不備だと考えました。

■ちょっとブレイク 「論理的○○」のシリーズ
 ちまたに溢れる論理的○○を整理してみました。

■疑心暗鬼を防ぐには
 安全は論理的に説明できるが、安心を受け手側に感じてもらうのは難しい。どれくらい難しいのか、ということについて考えます。

■けがれ、みそぎ、はらい
 上記で考えて来た論理的なことは「安全」を説明する手法。
 では、「安心」を証明するにはどうすべきか。
 「見えないものへの恐怖」は「けがれ(穢れ)」。対処法は「みそぎ(禊ぎ)」と「はらい(祓い)」。
 べつにスピリチュアルな話ではなくて、安心は「気持ち」へ対策、つまり教育と報道だと考えます。

----目次はここまで-----


■おどろいた2つのニュース

昨日、非常に気になった記事が2つあった。

1つめ。
「子供が心配」…福島ごみ処理支援で川崎市に苦情2000件超」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110414/dst11041400130006-n1.htm

2つめ。
「放射能怖い」福島からの避難児童に偏見」
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110414k0000m040137000c.html


ご存知のない方に3行で説明すると、次のようになる。(記事から抜粋)

[1]
川崎市市長が福島県を訪問し、がれきなどの処理の協力を申し出た

市役所に苦情が殺到。「放射能に汚染されたものを持ってくるな」

川崎市は「放射能を帯びた廃棄物は移動が禁止されているため、市で処理することはない」

[2]
福島県から千葉県(船橋市)へ疎開した子供が公園で遊んでいた

方言を耳にした地元の子供たちから「どこから来たの?」と聞かれた。兄弟が「福島から」と答えると、みな「放射線がうつる」「わー」と叫び、逃げていった

子供はショックを受け、福島市へ再び避難
受け入れている小学校の校長は、「温かく迎えるのは言われなくても当たり前のこと」と強調。「放射能を巡る偏見や方言で児童を傷つけることがないよう注意深く見守ろうと、教職員に何度も話している


2の記事では他のケースとして「タクシー乗車拒否」「アパート入居に難色」「福祉施設や病院で検査証明書を求められた」を紹介し、専門家(放医研の柿沼志津子博士)のコメントを掲載している。

「「大人をまず教育したい。受け入れる側が心配すべきことは何もありません。むしろ心配しすぎる方が体に悪い」と指摘。「放射線について正確な知 識に基づき、『正しく怖がる』ことが大切です。もっと勉強してほしいし、私たちも理解を深めてもらえるよう努力しなければならない」と話す。」


■2つの記事から見えること


この画像は『はだしのゲン』の一コマ。

「はだしのゲン」で描かれている場面では、皮膚のケロイドなど、外見的な理由が大きかった、と言われている。
当時は放射性物質などに関する情報もなかっただろうから、漠然とした話だけが広まっていたわけだ。

「世界唯一の被爆国」を言い続けている日本国民。
しかし、その実態は「原子力について、世界的にみて、日本人が特に理解力が高い訳ではない」ということがよくわかった。
第二次世界大戦終結から60年以上が経過した「現代人」でもこの画像と同じ水準なのだ。

もちろん、わたしのレベルも「水野解説員」や「池上氏」のコメントの受け売りの知識程度であることは認めるが、少なくとも我が家ではそういうヒステリックな反応は起こらない。

それはなぜなら、ちょっと考えればわかることだからだ。

[1]の記事に関しては、「立ち入り禁止区域の物は、遺体でさえ持ち出せない。むしろ、立ち入れないから遺体捜索さえできない」。したがって「問題になるレベルの汚染物質は現場から出せない」
※川崎市の説明の通り。

[2]の記事に対しては、学校が子供に言ってもそうならないのは、親がおそらくそういう言動を家庭で見せているからだと考えられるから。

たしかに子供はときに残酷な偏見を持つ。「貧乏がうつる」とか「バイキン呼ばわりする」とか。
表面的には似ているが、これらのイジメ的行為と、今回の件は、ちょっと内容が違う。

児童の性格の問題ではなく、確実に「教育」の問題だ。
さらにいえば、大人が持つ意識を、子供が反映・実行している。

ちょっとカッコつけて言えば、「大人の幼児性と思考停止によるヒステリー」。


■論理的コミュニケーションは「気づかせる」こと

わたしは昨日、2つの新聞記事から上記のように考えていた。
原稿〆切の関係で、すぐにこの日記を書くのは後回しにしていたのだけれども。

ひとりのマイミクさん(日記が制限公開なのでお名前は伏せます)が、川崎のケースについて「論理的思考の欠如」を原因に挙げていらっしゃった。

わたしは同感だと思った。
日本人は、ほぼ間違いなく「ちょっと考えれば分かること」ならば、文字通り「ちょっと考える」だけで理解できる。

そんなことは、TVのクイズ番組で毎晩のように大勢が実践していることだ。
なのに「ちょっと考える」ことをしない人は多い。

背後にある物は見えない。
でも、振り向けば見える。
振り向くという動作をするかどうかは、ちょっと考えてみるかどうか、に似ているように思う。

振り向ける人は、論理的思考が習慣のように身に付いている。
振り向かない人は、誰かが振り向かせる必要がある。振り向きさえすれば、自分で探し物を発見できるのだから。

わたしは、「振り向かせること」は論理的コミュニケーションだと思っている。

情報には「発信」と「受信」がある。
受信側がどう受け取るかを想定した上で、発信側は、受信側が陥るかもしれない穴を先回りして塞ぎ、誤解を防ぐ。

相手とどのように対話するか。
自分の意思をどうやって伝えるか。
受け手側の水準に適合するように、言い方を工夫する。

論理的コミュニケーションは、けっして詭弁や誘導ではなく、「情報の受け渡し」というバケツリレーを成功させるための方法論。

つまり、わたしは川崎市側の発表の仕方に問題はなかったか、あるいはこの方針を伝達した新聞・TVの言い方に不足はなかったか、といったことも含めて追跡してみたいと思う。


ちょっとブレイク ■「論理的○○」のシリーズ

「論理的○○」にはいくつかの派生パターンがある。
以下はわたしの理解。(誤りがあればご指摘ください m(_ _)m)

いずれのスキルについても、わたしは1合目付近をうろうろしています。精進! 精進! (^^;

「論理的思考」ロジカル・シンキング
・筋道をたてて考える事。
・階段を1段ずつ登るように、考える力。
・脈略のないつながりに即座に気づき、落とし穴を避ける。

「論理的傾聴」ロジカル・リスニング
・相手の発言内容と、発言された状況の両方を併せて考えながら聴く。
・文字通りの主張内容だけでなく、背景なども速やかに聞き取る力。
・昔風にいえば、観察眼とか感受性とも。

「論理的コミュニケーション」
・論理的に物事や情報を伝える力。
・論理的に相手の言う事を聞く力。
・ただし、感情を無視することではない。相手が感情的になっている場合は「目隠しをされて怯えている」状態だと考え、一層怖がらせるよな理屈で問いつめたりしない。まずはその目隠しを取ってあげることから。

「論理的記述」ロジカル・ライティング
・論理的に書く。
・矛盾なく。ヌケモレなく。筋道を立てて書く。


■疑心暗鬼を防ぐには

上記のように、論理的にコミュニケーションをすることは、誤解にもとづく偏見や差別を予防し、パニックを回避する方法であると、わたしは考えている。

だけれど、「安全」を連呼されても、本当にそれを信じる人は少ない。
だれでも「騙されたくない」という思いがあるから、安全を信じるどころか、かえって不安を増大させることもある。

疑心暗鬼の語源は「疑心、暗鬼を生ず(疑い続けていると、暗闇を見るだけで鬼がいるかのように見えてくる)」。

公式発表を疑い続けていると、発表自体が隠蔽のための偽装工作だと思えてくる、という仕組みなのだ。

つまり、どれほど論理的に「安全」を訴えても、心理的に「安心」がない限りは、論理的な理解は得られない。
わたしはそう思っている。

疑心暗鬼を予防し、安全を十分に理解してもらうには、「安心」が不可欠なのだ。


実は本題 ■けがれ、みそぎ、はらい

では、安心はどのようにして得るのか。

菅総理が厚生労働大臣だったころ、「カイワレ大根が危険」という事件が発生し、その騒動を収束させるべく、菅元大臣は「カイワレ大根をムシャムシャ食べる」というパフォーマンスをやった。

厚生省のおかげでカイワレ大根が売れなくなった農家や関係者は、「大臣が食べたのだから安全」だと、「安心してください」とアピールし、溜飲を下げた。

安心が必要なのは、別に日本人に限った話ではない。
でも、「カイワレ大根を食べる」とか、最近では枝野官房長官が「福島県産ホウレンソウを食べる」といったパフォーマンスによって、国民を安心させようとしているのはなぜか。

科学的なデータに基づいて「健康に害はない」とすれば、「論理的に考える」国民なら納得しそうなものだ。
しかし「自分も食べるから国民も食べてください」というパフォーマンスを行う。

わたしはここに、日本人の「水に流す」発想を思い出す。
「水に流す」は、リセットして人や物との関係をやり直すのたとえだが、パフォーマンスという「水」で、「疑い」を流そうとする。

ここえいう「疑い」とは、対象の野菜が「汚染されているらしいという疑い」だ。
汚染とは、泥がついているとかいうものではなく、「目に見えないものへの恐怖」であり、ちょっと古い言い方をするならば、「けがれ(穢れ)」。

べつにスピリチュアルな話ではなくて、安心は「気持ち」へ対策だと考えれば、けがれという拭えない不安をどうやって無くすかが、安心への対応策なのだ。

けがれへの対処法は「みそぎ(禊ぎ)」と「はらい(祓い)」。
要するに、「水洗い」と「ホコリを払い落とす」という掃除の基本を行うということ。

野菜を水洗いする話ではない。
「放射能が伝染(うつ)る!」とか「放射能汚染物質を持ってくる気か」といった誤解を取り除く(みそぎ・はらい)ということだ。
安心を与えるのは、そういうことなのだと、わたしは考える。

無理解を理解に変えるのは、安全を説得することであり、「論理」の力がいること。

一方、得体の知れない恐怖といった気持ちの悪さを取り除くには、安心してもらうために「疑いを晴らす」ことが必要。「疑われない」ためには「信じられる」ことが必須。

新聞記者やTVカメラマンが退避区域から一斉に去ったことも、読者や視聴者が感じる「気持ち悪さ」につながっているのではないか。

ちょっとコジツケかな? 本題に入ってから、自分の言葉が鈍っている感じがする。力いっぱい書こうとしているのに。

それだけ「安全の説明(発信側の努力)」は容易く、「安心してもらう(受信側の気持ち次第)」は難しいのかもしれない。

それだけ今回の船橋と川崎で起きた事は、放射能という「見えないものへの恐れ」への「市民の反応」の事例として、「気持ちへの対策」つまり教育と報道の重要性を感じた。

また「汚染」を、無意識に「けがれ」と認識しているであろう日本人の精神性についても考えるきっかけになった。
 
 

「心理」ではなく「無知」「面倒」「創作」


『文末に。。。や、、、を使うのはアリ?』http://blog.goo.ne.jp/oshiete_watcher/e/8c502af14fde0de30897456eba82fd62


(1)「無知説」 
「アリ?」か「ナシ」かではなく、「…」には「三点リーダー」という名前があって、なおかつ「……」とセットで使うものだということを知らないだけでは? 

(2)「面倒説」 
知っていても、「……」は変換する必要があるので、それが面倒で句読点か「・」(ナカグロ)の連打を多用しているのでは? 
句読点なら打鍵して確定するだけでよく、入力スピードが早い。 

(3)「あえて変わった表現をしたいと狙った説」 
どのように使っても個性は表現できると思うが、その人物の知性を表してしまう諸刃の剣。 
ニュース記事中にある「押し黙る感じ」を出したのであれば、 
「……。 
 ……。」とするのはどうだろう。 
どちらにしてもビジネス文書で多用はできない。 
「――。」とダーシ(またはダッシュ)を使って沈黙を表現するパターンもアリと言えばアリ。(ビジネス文書では使わないが) 


私的なメールではあまり気にしないし、おもんぱかる。 
しかしビジネス文書で使われると、「おい、こら、濁すな。黙るな」と思ってしまう。 
句読点連打を見ると、知的水準に幼稚性を感じてしまう。 
(感じたとしても何も言う事はないが) 
 

2011年4月22日

HRさんお気の毒

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内定者が振り返る、就活の書類選考を勝ち抜くコツ
http://freshers.mycom.co.jp/column/2011/02/post_7.html
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この記事を読んで。

応募者のレベル上げに付き合うほど人事はヒマではないと思うものの、
読まれない可能性のあるESをせっせと作り続けなければならない学生も気の毒だなぁ。(もはや強迫観念といっていい次元では?)

周囲が走っているから自分もつられて走る。
気づくと走ることが目的になって「どこへ・何のために」走っているのを見失ってしまうのではないだろうか。

かと言って勤め先を(強制的に)国民全員に割り当てるのは社会主義方式なので論外だ。
就職活動は難しいなぁ……
企業と応募者が最小労力で最大効果のある出会いを実現する施策はないものだろうか……


<以下、夏目漱石『道楽と職業』(明治48年8月に行われた講演)より抜粋引用>

■漱石が述べる「当時の就職難」
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現今の世の中では職業の数は煩雑になっている。

私はかつて大学に職業学という講座を設けてはどうかということを考えた事がある。
建議しやしませぬが、ただ考えたことがあるのです。
なぜだというと、多くの学生が大学を出る。
最高等の教育の府を出る。
もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口の口がないか何か生活の手蔓はないかと朝から晩まで捜して歩いている。

天下の秀才を何かないか何かないかと血眼にさせて遊ばせておくのは不経済の話で、一日遊ばせておけば一日の損である。
二日遊ばせておけば二日の損である。
ことに昨今のように米価の高い時はなおさらの損である。
一日も早く職業を与えれば、父兄も安心するし当人も安心する。
国家社会もそれだけ利益を受ける。

それで四方八方良いことだらけになるのであるけれども、その秀才が夢中に奔走して、汗をダラダラ垂らしながら捜しているにもかかわらず、いわゆる職業というものがあまり無いようです。

あまりどころかなかなか無い。今言う通り天下に職業の種類が何百種何千種あるか分らないくらい分布配列されているにかかわらず、どこへでも融通が利くべきはずの秀才が懸命に馳け廻っているにもかかわらず、自分の生命を託すべき職業がなかなか無い。
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■職業に高低や貴賤といったものはないが、職業によっては自分の信念を曲げてでも適応することが成功要因となることもある。
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自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである。就中最も厭なものはどんな好な道でもある程度以上に強いられてその性質がしだいに嫌悪に変化する時にある
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■社会のニーズ/ウォンツへの適合が社会生活である。
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要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。
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■それはアーティストにおいても同じだが、「マーケティング的に成功」すれば良いかというと、そうではない。
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こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向の助けになるだろうと傍の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略はない。
ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。

もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲のあるのは無論だから多少世間と折合って歩調を改める事がないでもない。

芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。
なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。
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■特にアーティストについては強調されているが、「自己本位」とのバランスがなければ「作品(=仕事)」にならない。
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ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。
自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。
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<以下、ニュース記事原文>
就職活動における関門には、多くは履歴書やエントリーシートといった書類選考が含まれます。社会人の扉を開く最初の一歩に、昨年就活に取り組んだ内定者たちはどのように取り組んだのでしょうか? 今当時を振り返って、思うことは? 内定者たちに、書類への取り組み方について聞いてみました。

【振り返り1:就活の序盤にエントリーシートの数をこなして慣れるべき】
「エントリーシートを書くのには苦労した。書けば書くだけ、エントリーシートはいいものが書けるようになる。就活を始めた3年生の秋からたくさん数をこなしておけば、冬・春以降での書類落ちの数も減らせたのではないかと思う」(女性/食品・飲料業界内定)

応募書類の書き方も、たとえばサッカーのリフティングや料理のように、経験を積めば積むほど上達するようです。少しでも興味のある企業なら、エントリー時期が早いものから取り組んでみるのもアリでしょう。エントリーシートを実際に書いてみることによって、それまで気付かなかった自分の新たな可能性も拓けてくるはずです。

【振り返り2:エントリーシートだけでなく、履歴書にもしっかり力を入れる】
「私の場合は、エントリーシートを書いたのは活動初期の大手企業ばかり。比較的規模の小さな会社や、すべての学生と面接の場で話し合うことをポリシーにされている会社などは、履歴書のみでの書類審査がほとんどだった。エントリーシート対策も必要だけど、自分が目指す就職先によっては、履歴書の方が重要度が高い、ということもあり得ます」(女性/金融・証券業界内定)

会社個別のエントリーシートの対策にばかり熱中して、基本となる履歴書がおろそかになっている就活生の方、もしかしたらいるのではないでしょうか。定型がほぼ決まっている履歴書だからこそ、対策をすればするほど効果は上がりやすいはずです。なかなか書類選考が通らないという人は、一度、履歴書の出来を疑ってみても良いかもしれません。

【振り返り3:早い時期から、幅広い企業に目を向けエントリーしておくこと】
「大学4年の5月、6月に応募先の持ち駒が無くなり、そこから新しい企業を探したのだけど、選考が終わっている場合が多々あった。スケジュールに余裕のある早い時期から幅広い企業に目を向け、エントリーシートを書いておくことが大事。後になって慌ててエントリーを詰め込もうとすると、提出期限が密集して、書類の質が下がってしまう」 (女性/運輸・倉庫業界内定)

最初のうちは志望業界を絞っていたけれど、後で業界の幅を広げようとしたときに対応しきれなかったケースですね。エントリーにあたっては新たな企業研究も必要となり、時間が必要です。さらにエントリーシートの提出期限が重なると、結果的に手を抜いて書いてしまう企業、提出そのものをあきらめる企業が出てきてしまう、というもったいない事態に。志望業界を早い時期から絞り過ぎず幅広い視野を持ち、先を見越した計画で余裕をもって書き上げていきたいものですね。


就活で避けては通れない書類選考。厳しい選考に通過する応募書類を仕上げるレベルに到達するためには、試行錯誤する時間や、何度も挑戦した末の慣れが必要のようです。今就活に取り組んでいる方は、ぜひ内定者の振り返りを参考にしてみてくださいね。
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プレゼンのスライド

プレゼンっていろいろな人がいろいろな場で行うけれど、商品カタログみたいなものを音読する人が少なくない。 

わたしはべつにジョブズかぶれなわけではないけれど、プレゼンテーションというのは、コミュニケーションだと考えていて、話す側と聴く側が、互いに「おもしろい」と感じるものが良いと思っている。 

「おもしろいもの」は印象に残るし、おもしろいと感じてもらえれば興味もひいてもらえるかもしれないしね。 

そういえば、このプレゼン資料(スライド)をつくって関係者にちょろっと喋ってみようと思っていた。 
(内々の勉強会用だから「アジェンダ」はあえて入れない、などのことはしているので、ちょっと「正攻法のプレゼン文法」とは異なるけど) 
http://ozakikazuyuki.com/portfolio/press1104.pdf 

「TRPG」で訓練された経験などは、こういうときにも少し活きてくるね。 
  
 

2011年4月21日

ホラーとミステリ

死に関する話を少し。

わたしはホラー映画や小説は好きです。
一方、ミステリ小説やドラマはあまり好きとは言えません。

ホラー映画には多くの場合、死についての考察が含まれているからです。
脚本家や監督の価値観に基づく思想です。
これらの思想には、時には解きようのない「謎」が含まれています。

ミステリドラマは、事件の発生と解決を論理的に、多くの場合はトリックを交えながら物語が進んでいき、死そのものはあまり考察されません。
物語中の死者と生者の行動と思考がクローズアップされ、解の見つかる謎掛けで構成されています。

ミステリでは、「死」ではなく「殺」が焦点の対象だからかもしれません。


■焦点の違い


どうやって死んだのかよりも、なぜ死なねばならのかったのかについて、作者(あるいは監督など)がテーマとしている方が、鑑賞対象として好みなのだと思います。
 
もちろんミステリのなかにも、死についての深い洞察を含めつつ、エンタテインメントとして昇華している良作も少なくないでしょう。
反対に、ホラーにも“おバカホラー”という軽〜いノリの作品群があることも事実です。
 
ですが、その作品の「後味の良し悪し」は別として、わたしは「一件落着」で終わることが好みではないのだと思います。

そのホラー映画の監督が変態で思想的に奇人で作品も常軌を逸している場合があっても、それもひとつの直視する「監督の頭のなかの現実」(ひとはそれを「空想」と呼ぶかもしれないけれど)にほかならない。

『エイリアン』は異星人による殺戮を描いているけれど、逃げ惑う人、抵抗する人、そういう「生き方(生存本能、あるいはサバイバルに直面する行動)」が焦点になっていると思います。

でも、「ナゾトキ」ミステリは、用意された綱をたぐっていけば、解答までたどりつけるようになっています。
登場人物の生き方云々ではなくて、「ロジック(あるいはトリックや仕掛けの機械的な矛盾のなさ)」の奇想天外さや面白さに焦点があたります。
 
一方、「ナゾカケ」ホラーは、解答がない。見るひとが感じたり、考えたりするままでいい。
作者は一定の結末を物語に与えているとしても、つじつま(ロジック)の整合性がとれているとは限らないです。

箱庭を完璧に「管理」するなら、ロジックの楽しみ方でいいと思います。
しかし、自然の庭を「手入れ」するには、あるがままを受け入れるしかない場面にも出くわします。因果関係を「理解」はできても、「操作」はできないように。

わたしは、その「操作できない」こと、偶然性、自然(じねん)、などなど、「どうにもならないこと」がテーマになっている作品が好みだったりするし、そこに面白さを感じるのでしょう。

『シックスセンス』や『アザーズ』はナゾトキか、ナゾカケか。
解説はできても、解答とは言えない、とか。


■恐怖と神秘の違い

わたしは映画評論家ほど、多くの作品をしっかり鑑賞しているわけではありませんから、あくまで自分の見た範囲での話になってしまうけれど、「この 仕掛け(ロジック:ナゾトキ)は面白いだろう?」という作者の姿勢がうかがえる作品よりも、「私に描けるのは、この物語世界のなかで起こった事の、ほんの 一断面に過ぎません(ナゾカケ)。書かれている事は『部分ですが物語としては全て』であり、書かれていない範囲こそが『全てを含む全て』なのです。これ表 現できません」という作者の姿勢に好感をもつのです。

ホラーが「恐怖」で、ミステリが「神秘」。
この訳語もおもしろいな、と思います。
恐怖は内側にあり、神秘は外側にある。
内側には触る事はできず、外側にある「神秘っぽいもの」の多くはハリボテか偽装です。

なんとなく恐怖は暗闇を、神秘は光明をイメージさせます。
人間の目は光を知覚できる。知覚できるものがない状態が闇になります。
闇は知覚できません。

闇が知覚できないように、謎を解くこともできない。。
もし「謎が解けた」と思ってその「謎」というドアを解錠できても、次の部屋にはドアが2つある。
もし「謎が解けた」と思ってその「謎」という疑問を払拭しても、判明した事実には次の謎まみれ。
ナゾカケホラーは、ときに意味不明でも、意味も不明も、合致する既存価値観がないだけ。
ナゾトキミステリは、かならず合致する既存価値観や方法論からは外れません。

ホラーにいるのは作者という人間の内側の闇。
ミステリにあるのはハッキリと触ることのできる功名心という刺々しい物体。

推理小説の登場人物が、つかむことのできない闇をもって描かれているならば、わたしはそれはホラー小説だと思っています。
殺人方法は探偵によって解明されても、殺人動機には「手ざわり」がないからだ。
凶器は握れるが、狂気は触れられません。


■ホラーは文学的


だからときにホラーは純文学に匹敵します。
ミステリドラマの殺人犯は、「現実にいそうにない人間」ばかり。
わたしは物語中の「実際にいそうな人間」に関心があるから。

怪奇もの、心霊ものなどのホラーもそう。
低予算映画のヒット作の多くがホラーなのもそう。
「現実」に似せていく事と、予算は正比例はしない。
破綻のないロジック(芝居)は、船越英一郎の岸壁の説得シーンだけで十分。(笑)

ナゾトキは饒舌。
ナゾカケは寡黙。

ナゾトキの世界は小さく、ナゾカケは世界そのもの。
作者が「死と生」と「人間と自然」をどう扱いたいのかによって、ホラーとミステリがわけられるのでは。
わたしの考えはこんなところで、両者を区分けしているのです。
つまり、命についての表現上に関する思想あるいは自分なりの考え方なのです。
 

2011年4月20日

楽譜


■楽譜は遺産


楽譜は「記録」だから人類の宝物であり未来へ引き継ぐべき遺産。

楽器は「道具」だが過去の名匠の作品だから二度と製造(制作)出来ない点で、やっぱり人類の宝物であり遺産。

管楽器の多くには産業革命以降の工業生産品的側面もあるけれど、日用品と同じというわけではない。やはり一本一本が遺産だと思います。

現代人はそれを「過去から預かって(あるいは過去のものを基に、自分たちで新規に創造して)」未来へ渡す役目がある。
これは何百年経とうとも、「その時々の現代」が担うことに違いありません。
 
「楽譜や楽器はお前の命より重い。事故に会ったら死んでも守れ。子供だと思って守れ」
これはわたしの恩師の言葉。(一部改変)


■楽譜は「お預かりするもの」
 
別にわたしは、ガリ版刷り時代における楽譜の貴重さや、貴重な原譜の入手困難さや高価さを思い出してノスタルジーを感じたいわけではない。
コピー機登場後のことや、ましてや近年はPDFで手に入る安易さを見くだしているわけでもない。
 
ただ、「この楽譜は、数十年、数百年にわたって、守られて伝わってきたもの」という意識や、新曲の場合でも「作/編曲者が人類初の“何か”をここに生み出してくれたもの」という気持ちを大切にしていきたいな、と思っているだけ。
 
それは人を尊敬する心だったり、あるいは畏敬の念をもつことに近い。
「謹んで、お預かりいたします」
「よろこんで、演奏に善処いたします」
べつに、これらは自分を卑下していることにはならない。

運動会のリレー。そのバトン。
前の走者から受け取る責任、走る責任、次の走者に渡すまでの責任。
別に、「駅伝のたすき」でたとえてもいい。

「謙虚で本気」
「遠慮して全力」
そういう気持ちがなにごとも大切だと思うそんな午前3時です。


■楽譜を「返却」するという考えかた

読みやすいきれいな楽譜が容易に手に入る(あるいは作る事ができる)こんな時代だからこそ、「(楽譜入手の困難さが)骨身にしみてわかる」なんてことは起こりにくい。
わたしは、それを補うのは「想像力」だと考えています。それに、想像力を雲だとすると、雲を構成する水蒸気が「論理」だとも。
 
想像力と論理的思考。
「楽譜が手に入らなかった過去の時代をイメージして、今を『ありがたがる』」ことではないですよ。
「この『巡り合わせ』あるいは『縁』で、わたしは演奏機会を得ることができました」という想像力です。

思い出を持つのは個人の自由ですし、思い出はその人だけのものです。
でも、楽譜は、もっと大きな「自分以外の人のもの」だと思うのです。

わたしが楽譜を団体に返却するのはそのためです。
わたしが使った楽譜が使われる事は2度とないかもしれませんけれど、「わたしがその楽譜に寄り添った時間」は、奏法や表現方法の指示や注意書きとして残る。
 
主役はわたしではないんです。「楽譜>楽器>自分」の順番。
「わたし」が「別の奏者」に代わっても成立する。
「わたしと楽器」が「別の奏者と別の楽器」になっても音楽はそのまま。
でも「楽譜」が変われば「それは別の音楽」なんです。


■「風船的人間」にならないために

これは「逆説的エゴ(過剰自虐的自意識過剰)」でしょうか?
そうはならないと思います。
世界の中心が自分でない自覚があれば、「実は世界の中心なんてものはない」ということに気づきそうなものです。
一方で、「世界の辺縁にいる自分の中心」は確かめられると思います。
 
「自分の現在地」は分かりえなくても、「自分を形成している『自分の中心』」は探したらみつかりそうなものです。
これが見つからなければ、芯のない、風船でしょう。
 
表面張力で外見を保っている人間がいるとすれば、そんな風船的人間かも。
でも、力学的には風船にも中心がある。
その中心点には何がある? 自問です。自問“他”答。

わたしにとって、「楽譜と、楽譜的位置づけだと思える文書」がその点になっていそう。
「過去から、うやうやしく受け取る。未来へ、厳粛な気持ちで引き渡す」
楽譜って、そういうものかなぁ、と。
 
楽譜の話からはじまって、ずいぶん飛躍したけれど、まあ結論は「楽譜はあなたのものではない。もちろん、わたしのものでもない。大切に扱いましょう」ってとこくらいの話。
 

内容云々よりもこの取材姿勢に噴飯

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モテる楽器を始めるぞ
http://career.cobs.jp/level1/yoko/2011/02/post_892.html
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この手のランキングをニュースでみるのは最近だけでも3度目かな。
いままでで一番ヒドイ内容に噴飯。

>「楽器ができる男はモテる」(中略)いくらかかるのか分かりにくい。

「モテるために楽器を始めるには¥がどの程度必要?」という内容に噴飯(←コンビニの「唐揚」を噴いた)。
楽器に投資するくらいなら、ちょっとイイ車を買うとか、英語を勉強して(相手が英語が苦手な事が前提だけど)外国旅行でエスコートするとか、そういう方が「モテる」と思うのだが。
(一番モテるのは、お札でふくらんだ財布をチラ見せすることさッ!←高い確率で間違いない)

>筆者にはほとんど縁のない楽器なのでノーコメント。

おい、取材してこいよ!!(笑)
わからないことはパスというライターの姿勢に噴飯(←おやつのミカン)。

>最低金額を東京・お茶の水の有名楽器店の一つ、下倉楽器のオンラインショップで調べてみました

お茶の水の店に行ったのかと思いきや、Webで調べただけとかにまた噴飯。(←こんどはコーヒー)
たとえば、『実際に、モテたいがために楽器を始めたいという相談はあるのでしょうか? 下倉楽器の○○さんに聞きました』くらいのインタビューでもしてほしいものだ。せめて電話でもいいからさ。

>挫折しない覚悟があるならば、エレキギターで6万円、アコースティックギターで3万円程度の予算で

高いものを買う事で「よし、この楽器を頑張るぞ!」と考える、という発想はないのか。
まずはお手軽に初めてみようというアプローチに噴飯(←おやつのブラウニー)

>そろえれば、取りあえず独学が可能

そろえただけで実現するのは、「学習が可能」ではなく「インテリアの飾りになる事が可能」ではないんではないか。
独学で身に付くと思っている水準に噴飯(←胃液)


COBS ONLINEのライターはこれで原稿料がもらえるのかな。
3千円くらいはもらっているのかな。
とにかく噴く場所が多くて、そのことだけでも噴く。
俺の周囲の俺の噴飯物の片付けをせねば……

俺もたいがいな下劣さである。
  

ヴァイキングの末裔のチェリスト軍団

フィンランドを拠点にするチェロ3本+ドラムのヘヴィメタルバンド、アポカリプティカ。

北欧といえばヘビメタやデスメタルの名産地(?)だし、神話的な内容でシンフォニック、叙情的なメロディのメタルがお家芸になってきている気がする。
 
「反キリスト教的思想」音楽が成立するのも「キリスト教地域」だからこそ、という感じはするし、アンチクライストがイタリアやフランスよりも北欧 の方が根強いのは「キリスト教化」される以前の「古スカンジナビア」の回帰とかとか、メタル評論家の方々が語りだしたら止まらないようなウンチクもいろい ろあると思う。
 
わたしはこのジャンルについて詳しくはないけど、「ナイトウィッシュ」というバンドは好きだな。だってカッコイイじゃん。

アポカリプティカはチェロのバンド。こういうのもありだよね、っとは思う。
ある意味で「チェロらしい」。

『アーマゲドン』
(apocalyptica Armageddon)


『山の魔王の宮殿』
(Apocalyptica "Hall of The Mountain King" (official full length live video) )

 
パッとみ「勢い」がすごいけど、「入念なリハーサル」に裏付けられているパフォーマンスなんだろうな、と思う。
熱狂の底流の冷静さ。
 

「業界」と「事業内容」

「IT 企業就職人気ランキングトップ 3 は「NTT データ」「富士通」「楽天」」
に対して、

「自動車企業の人気ランキングとして「トヨタ」「クロネコヤマト」「高速道路公団」と書くと、比較する会社おかしいんじゃないの?と言われるけど、 IT企業だとおかしいと思わない人が沢山いると思う。特に学生は区別ができていない人が多いと思うマスコミの責任かな?」

という書き込みがあり秀逸だと思った。
http://slashdot.jp/it/article.pl?sid=11/03/30/042229

「IT企業」っていうくくりかたは、「大工もゼネコンも工務店も水道屋も電気工事屋もそれらのパーツメーカーも卸業者もビル管理会社もひっくるめて『建築会社』」と言っているのに等しいな。

実際問題、収縮活動中の学生に「楽天、NTTデータ、富士通は『IT関連企業』だが、これを横軸としてくくる場合、別の視点(縦軸)で分けると、どのように分けられるか」と問題を与えたら、正答率はどれくらいのものだろう。

合掌……

来日した戦場写真家が被災地で撮影した、一連の写真を見ました。

TVや新聞では掲載される事のない事実の直視。
瓦礫の間のご遺体、棺、体育館での遺族との面会、葬儀、埋葬。

プロの写真家の目を通して、私たちもそれを見る。

お亡くなりになったかたがたの冥福を祈るとともに、
一日も早い復興を願わずにはいられません。

募金についての私見

■日本式募金活動

アメリカなどのTV番組をみると、「募金するためにバイトをしてそのお給料を送る」というシーンをしばしば見かける。
子供たちも『自分にできること』を見つけ、実行していると思える。
あるいは周囲の大人が適度にアドバイスをしているのだろう。
「お小遣いが足りないなら、働いて、自分のお金を寄付するのよ」って。

一方、日本。
街頭・駅前で
「ボキンボキン!オネガイシマスオネガイシマス!」
と大声を出している子らをあまり好きになれない。(´・ω・`)
それは本当に『きみにできること』なのか?

善意ではある。
だが、その「善行」という立て看板をはずすと、行為の本質は他人の金をせびる行為だ。


■街頭・駅前でできること

「日赤への義捐金の振り込み方」チラシを配るとか、
「学生のみんな! バイトして金を送ろう!」と訴えるとか、
そういう方なら評価する。
辞書にはそういうことは、『啓蒙』という言葉として載っている。

群れてカロリー消費して「今日はボクたち頑張ったね感を満喫」してるのではないか?
「労働」をするのと同じように、“雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ” に その街頭に立つ自信はあるのか?

「The Big Issue」を売るオジサンたちと同じように街路に立って、黙々と募金活動をし続ける気概はあるか?


■エネルギーと時間の費用対効果

小額でも集まれば大金になるのはわかる。
だから効果ゼロとはいわない。
でも時給換算して、「若い学生たちのエネルギーと時間」の投資対効果として、適切なのかは疑問。

一生懸命勉強して、一日も早く、国家を動かせる権限をもつ政治家/公務員を目指すとか、事業を成して利益を還元する実業家になるとか、そういう目標をもって「その若いエネルギーと時間」を使う方がいいのではないか?

「ソフトバンクの孫社長は100億円を寄付した。僕はそれ以上を寄付できる大人になる」とか
「総理大臣になって非常事態の迅速解決を最優先するリーダーになりたい」とか
そういう方が、わたしは好きだな。


■「いま」のことは「いまの大人」の仕事


義捐金は「いま必要とされている」から、そんな悠長なことはできないとか、そう言う人もいるだろうけれど、「非常時に備えられる大人」を目指すことが本分ではなかろうか。
ならば、「いま」に対し、「備えていた大人」はどれほどいるのか。

この大人たちを反面教師にする考えはどうだろう。

善意や義勇心には共感する。
『きみにできること』を考えてもらうにはどうしたらいいだろう。(´・ω・`)


■被災地はがんばるな、非被災地はがんばれ


被災地にガンバレガンバレ言うのはほどほどにしたい。
ガンバらなくてもいい暮らしに一日も早く戻してあげますよ、そういう声を掛けてあげる方がいいのではないか。

張りつめた糸を、「もっともっと」と引っ張れば、切れてしまう。
四六時中緊張している人々に、「もうがんばらなくていいんだよ」と言える日をたぐり寄せるのは、「非被災地住人のがんばり」にかかっているのでは。

でもその「がんばり方」は、街頭・駅前でカロリー消費することだけではないはずだ。

世界水没地図


「(地球温暖化などで)海面水位が上昇した場合」をシミュレーションするサービスが興味深い。
おそらく、等高線の情報をもとに作っているのだと思う。海面水位は画面左上のプルダウンで選択できる。

http://flood.firetree.net/

画像はこのシステムによって水位が最大60メートル上昇した場合の想定水没地域。

1メートル、海面が上昇すると、千葉県茨城県の境の利根川沿いや霞ヶ浦付近の水田地帯がだんだん浸水していく。都内は隅田川や多摩川河口付近で浸水がはじまる。

2メートル。
羽田空港付近の水没が始まる。
江東区、墨田区、葛飾区、浦安市、船橋市、松戸市、八潮市、三郷市あたりの河川沿いが溢れ出す。
千葉は印旛沼や手賀沼付近が浸水していく。

3メートル。
成田付近から我孫子にかけての水田地帯が浸水していく。
都内は中川、隅田川、江戸川流域が徐々に水没していく。
房総半島は千葉市沿岸部や市原から袖ヶ浦・木更津に掛けて海岸線が内陸に寄っていく。
九十九里浜は海底になる。

4メートル。
利根川沿いの浸水はつくばみらい市にも迫る。
神奈川県では川崎市、横浜市の水際は水没する。
九十九里浜はなくなり、水は茂原や東金の手前に至る。

5メートル。
利根川の河口はまるごと入り江になる。
墨田区から板橋区にかけての高台は残るが、23区のうち低地地帯は沈む。

6〜9メートル。
江東区、墨田区、品川区、江戸川区、葛飾区、足立区、浦安市、から市川市、松戸市、三郷市、草加市、流山市、越谷市、戸田市までは東京湾の一部になる。
利根川付近に広がる太平洋の入り江は、野田市あたりで東京湾とつながりはじめる。

13メートル。
房総半島は島として孤立する。
千葉は126号線に沿って海岸になる。
静岡県も富士から沼津に掛けての低地が水没する。

20メートル。
東京湾は幸手、久喜、加須を超えて、館林、熊谷、古河、下野市にまで至る。
茨城県南部は筑波山付近を残して水没する。
神奈川県も平塚、茅ヶ崎市の相模川河口は海の下。

30メートル。
関東平野は関東湾になる。
千葉島は細かい川をたくさんもつ、南北に細長い島になる。銚子付近は離れ小島。

40メートル。
飯能、日高、入間、東村山、所沢府中、多摩、町田市あたりが海岸線になる。杉並区半島になる。

60メートル。
三浦半島は大楠山付近のみが残って島となる。
相模鉄道本線沿いの大和市、座間市の一部が半島になる。
千葉島は南部の山間部のみが太平洋に残される。
北部は藤岡から栃木、鹿島への東西のラインが海岸線に。
この水位になると浜松から名古屋の木曽川流域は水面下になり海岸線は岐阜付近へと迫る。大阪も水没し、奈良付近が出島のように突き出る半島になり、大阪湾は京都のすぐ南にまで迫る。


本来、江戸は「武蔵野国」の低湿地帯であった事実を思い出す。

だいぶ前に完結したわたしの好きな漫画『横浜買い出し紀行』では、地球温暖化による水位上昇と富士山噴火という天変地異の後の関東のゆっくりと滅んでいく姿を「凪の時代」「黄昏のころ」と表現して独特の空気感をもつ漫画になっていた。

他にも水位上昇を描いた作品としては、わたしの知る範囲では安部公房の小説『第四間氷期』がある。前半は「未来予知機」を巡るSFサスペンス。後半はその後の人類を切なく描く。

「遠い未来の話じゃ、自分は死んでるからいい」って? いやいや、そんなこと言わないで。予測とは、そういうものだって。

2011年4月12日

電子書籍は普及予測を過去の例から


わたしはいつだって「前例尊重主義」だ。 

電子書籍が普及するか? 否か。 

あまたの情報記録媒体が生まれ、消えていった中で、「石盤」「粘土板」「パピルス」「木簡」「羊皮紙」を「紙」が“下位互換”を済ませて普及するまで約1500年を要した。 
(*前漢時代に発明され、ヨーロッパが羊皮紙から紙へ移行した近世初期までと考える) 

従って「紙に習って電子書籍は普及する」と導きだせる一方、「ひとくちに『紙』といっても種類や製法は千差万別だ。同様に、電子媒体も千差万別で、テクノロジーの発展とともに変化し続け、ゆっくりと普及していくだろう。(というような気がする) 

さらに遡れば、石盤(あるいは骨だとか亀の甲羅だとか、そういう『書き込む媒体(メディア)』)を使うようになるまで――つまり文字の発明=記号の登場とほぼイコール――には数万年を要した。 

電子書籍は普及するが、爆発的普及ではなく、規格化されながらじわじわと浸透していく。 
そんな予測をしている。 

2011年1月1日

「アザーズ」か「6センス」のような

明け方に見た夢。

男が街角の公園で子供に迷惑をかけられたので因縁をつけ、「てめぇの母ちゃんから慰謝料をもらわないとな!」と出かけていったら、いくつかの怪現象を経て、団地へ。

通常、駐車場などがあるスペースが墓地。
つい先日、大きい火災があったばかりのようで、普通の墓とは別に、素っ気ない作りの墓がいくつかまとめて並んでいる。
すすり泣く人が何人かいる。

目的階は4階。エレベータをみると高層階行きと、5階から中層階までの2基が並んでいた。4階にいけるものがないぞ、と焦ってあたりを見回すと、背後に小さいエレベータがあり、2〜4階行きだった。貨物用のような……あるいは棺桶のようなエレベータ。

4階は火災があったフロアらしい。
目的の家に着く。子供の母親とおぼしき女性を脅したりしながら部屋を物色。
男は真っ黒な戸棚を見つける。しかしなかなか開かない。

いくつかの怒鳴り合いのようなやり取りを経て、男は、自分がこの部屋で、火災で死んだことを思い出す。
この真っ黒な戸棚こそ、自分が死んでいたことを忘れさせていた装置だった。

男は町へさまよい出る。
くる途中、怪現象だと思っていたものが、お仲間だと気づく。
昼でも夜でもない時間帯の空。


というシックスセンスのような、アザーズのような夢が初夢でした。
この夢に続いて、もう2、3の短い夢を見たような気がしますが、それらは忘れました。

2009年4月28日

「ロールモデル思考法」考

梅田望夫氏が「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)で書いた「ロールモデル思考法」はとても示唆に富む提言だと感じる。
 
「なりたい誰か」でも「目標のあの人」でもなく、「あの人のこの部分、この人のあの部分」の総体として自分の重い描く姿を具体化してくことで、ムダな迷いを減らすことができる。
 

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「好きなこと」「向いたこと」は何かと漠然と自分に向けて問い続けても、すずに煮詰まってしまう。頭の中のもやもやは用意に晴れない。ロールモデル思考法とは、その答えを外界に求める。直感を信じるところから始まる。外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のありとあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分と波長の合うロールモデルを丁寧に収集するのである。
(「ウェブ時代をゆく」 p119(第四章 ロールモデル思考法))
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わたしはGTDなどを通じて、とにかく頭から吐き出すこと、リスト化すること、具体化、可視化などを念頭に置いてきた。だからこの「お手本を選び続ける」という手法はすんなりと受け入れられた。これは間違いなく有益な方法だ。

「なりたい自分をどうやって見つけ出すか」について、最近も就職活動に邁進する学生と話し合ったばかり。好きなことをやれ、個性を活かせ、などといわれても、学校では「好きなことをやらせ」「個性を重視」する教育はまだまだ手探りだ。そんな中で、無責任に「個性神話」を押し付けられてきた学生たちのなんと哀れなことかと思う!
 
ロールモデル思考法は、こうした学生に、ぜひ実践してもらいたい考え方だ。
おもいつく限り、「こうなりたい自分」の「部品」を集めてほしい。
 
小学生であれば「将来の夢は野球選手!」でいい。だが中学生なら「宇宙飛行士を目指したい。だから英語と数学と物理を勉強して、肉体も鍛えてJAXAに入る」というロードマップを描いて欲しい。高校生ならロードマップ上で「いつまでにどこまで達成している必要がある」というようなマイルストーンの設置をしてほしい。その中で「人間としての成長」のために、既にいる人(過去の人、あるいは周囲の大人)を手本にするのがよいのではないだろうか。
 
なりたい自分を完璧に定義することは、だれでも困難だし、ひとことで言い切れるような単純な人間には、案外なれない。「目標は“医者”です! “弁護士”です! という特定の肩書きや資格を得るだけじゃなくて、もっと具体的に「どの医者(弁護士)たちのような」といったところまで踏み込むべきだと思う。
 
そうすることで「なぜ(総体としての)医者なのか」「なぜ(具体性をもった)その人たちなのか」を導きだせると思う。
 
書いていたら、すこし自分の意図とズレてきた感じがするので検討を中断。
「ロールモデル」の引き出しを増やすために、学生向けの手法としてはリスト化が有効であるという仮説については、また検討を続ける。

2009年4月11日

年度末に思うこと

東京で働いていて、作業をしている間はもちろん熱心に業務にいそしんでいて、脇目も振らないんだけれど、ふと、外の景色(主に空や街路樹や植え込みなど)に目をやると、本当にこんなんでいいのかな、と思うことがある。
 
通勤路で見かける様々なもの。 
 
カラスとスズメとハトの違いは分かる。
でも他の都市の鳥は?
 
皇居のお堀のハクチョウと、線路の高架下のツバメは知っている。
でも他の渡り鳥のことは?
 
イチョウとサクラはひと目で分かるし、落ち葉の形にも愛着がある。
でも他の樹は?
 
ススキとタンポポの名前は知っている。
でも他の雑草は? 七草もソラで言えるかどうか。
 
鳥も、樹も、草も、そうした目につくもののことをちっとも知らない。そんな自分の存在に、午前6時の通勤時(あるいは退勤時だったか)に気づく。
 
一日の大半を、PCの画面か、紙を見て過ごす。
 
絵も見ない。
通勤で下車駅に国立近代美術館があるけれど、竹橋を渡ったことはない。
画集はすべて、二束三文で古書店に持ち込んだ。
 
音楽も聴かない。
CDは手元にない。iPodを買う予定もなし。
来日演奏家のスケジュールも知らない。
 
本は少しは読むけれど、小説は少なめ。
詩はもっと少ない。
 
仕事で大量の文章を書くし、メールや郵便物も多く作る。
でも……
 
「お世話になっております……
「おつかれさまです……
たいていはこの2句のどちらかではじまり、
「何卒宜しくお願い致します……
で終わる。
 
路上で、肩を耳に引っ付けるようにして、薄っぺらい携帯電話で話をしながらウンコ座りで必死にメモをとるビジネスマンの姿は、今じゃ普通。
 
通勤で、バッグを持っていない人を見かけることはあまりない。
B4とか、A3くらいの大きいサイズが多いように思う。
何をそんなに、持ち運ぶものがあるのだろう? と考え込んでしまう。
 
しかし私も、全財産(あるいはアイデンティティ)を背負って歩いているオタクなわけで、「『持たない』っていう美学」を両肩からタスキ掛けに下げているに過ぎない。
 
故・城山三郎の日記が出版されていたのでを少し立ち読みしたときに、『どうせ、あちら側には手ぶらでいく』というフレーズを見た。
 
二十代のわたしには、「どうせ」の諦観を完全に理解することはまだできないが、「あちら側には手ぶらでいく」には同感だ。火葬場の印象については以前書いた。
(2007年10月6日「火葬場の印象」)
あの、「何もなさ」感が、わたしの感じる「どうせ」だ。

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「死ぬ」って言葉は、動詞です。動詞は動きを示すわけですけど、死体は動きませんよ。死体になるまでは、死んでいないわけです。それなら「死ぬ」って、どの時点の話ですか。脳死の議論のときに、「もはや死に向かって不可逆的に進行するしかない状態」なんていう定義がありましたけど、それなら脳死の定義じゃなくて、人生の定義ですよ。(養老孟司『運のつき』)
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だから、「どう生きるか」でしょ、と。
人は去る。しかし作品は残る。
JobやWorkはすぐに忘れられる。Operaは残る。
とはいえ、そんなに肩肘を張って、鼻息を荒くしたって、何も作れやしない。
(鼻息といえば、水木しげるの漫画の人物を連想してしまう)
 
まあ、で、書きながら、このモヤモヤしているものは何だろう、と思っていたら、ひとつわかった。
わたしに必要なのは、休息だって、ことかなあ、と。
 

マルロー

マルローは、何世紀も続く日本独特のアイデンティティの形と精神性に関心を持った

1931年に初めて日本を訪れて以来、マルローがなにより知りたかったのは、日本が完全な孤立主義だったにもかかわらず、なぜ壮大な過去を築きえたかということだ。政治の変遷や、日本独特の社会制度、機構ができた背景はそれほど重要ではない。そうしたものはつねに進化し、方向性が変わるからだ。マルローから見て最も重要なことは、(好奇心に乏しい西洋人にはほとんんど理解できない)日本独特の思考スタイル、(自尊心の強すぎる西洋人から見ればほとんど意味をなさない)日本の文化や歴史の壮大さ、豊かさ、そして(時間的にも精神的にもゆとりのない西洋人にはわかりづらい)何世紀も変わらずに続いている日本独特のアイデンティティの形と強い精神性だった。

『アンドレ・マルローの日本』P72


アメリカは剛毛で、日本人は和毛です。日本人は真似するが征服されない

アメリカが私どもを改宗させることはないでしょう。だが連中はそこにいる。現実には私どもは一度も征服されていません。ただの一度も。私どもはよく連中の真似をします。じつによく真似ています。それもずっと以前から。そのことで私どもは攻められています。今では産業組織がいくつかあり、百万長者が何人か出てきた。連中のよりも有力な新聞がある。発行部数はなんと六百万部です。テレビだって連中のよりも有力だ。ひとつだけ、絶対に大切なことがある。私どもは一度も……ね……一度も魂を失わなかったし、これからも失うことはありません。連中の強力な力にはなんの根拠もない。勝者であることはいい。大切なことです。
(中略)
アメリカは剛毛で、私どもは和毛です。お稲荷さんの狐のように。世の中は愛撫なくして生きられない。(中略)アメリカ人は、人生と言えば男と女の人生だと思っている。(中略)私ども日本人は、人間とお狐さまと藤の花のあいだに絶対的な違いがないことをずっと前から知っています。
 
マルロー『反回想録』
間投詞「ね」は「ねぇ、そうでしょう」の意味だろう。マルローは面白がって、そのまま採録している。
『アンドレ・マルローの日本』p75


マルローの疑問:日本の絵画はヨーロッパ人に本当に理解されたのか?「芸術における誤解とは何か」

マルローは浮世絵と、浮世絵がフランスやヨーロッパの画家にもたらした影響の重要性を認める一方で、日本の絵画が本当に理解されているかどうか、自分自身正しく理解しているかどうかに疑問を抱く。(中略)「日本の偉大な作品」に対する自分の賞賛の念はおそらく「誤解」に基づくものだろうと言っている。「フランスの画家は浮世絵以外の日本の芸術をよく知らない」。その逆も言え、フランス印象派に対する日本人の賞賛の念は「誤解に基づいている」かもしれない。だが、「芸術における誤解とはいったいなにか」(中略)「大切なのは知識を広げることではなく、一致点や豊かな相違点を把握することだ。その極端な例は、日本の版画が西洋絵画に及ぼした、一見不合理な影響だろう」(中略)日本は「魅力的な版画にすべてを頼っている国ではない」とマルローは一九六〇年の日仏会館竣工式の演説で言っている。「真の日本、それは十三世紀の日本の偉大な画家であり、藤原隆信であり、またあなたがたの(古い)音楽であって、浮世絵ではない」
 
『アンドレ・マルローの日本』p95

――大切なのは知識を広げることではなく、一致点や豊かな相違点を把握すること。――真の日本、それは十三世紀の日本の偉大な画家であり、藤原隆信であり、また古い音楽であって、浮世絵ではない

知性だけでは<感性の国>日本に近づくことはできない

「アメリカは昔も今もキリスト教国で、これからもそうありつづけるだろう」と加藤周一は言う。「日本と異なり、アメリカは正義という観念をこれからもずっと大切にするだろう。つまり善と悪、正義と不正だ。日本は美しいものと心地よいもの、醜いものと不快なものといった観念にこだわり、普遍的な正義の観念については、本質的には永久に理解できないままだろう。というのも日本は個人主義の国ではなく、個別主義の国だから。感覚的なものは人によってすべて異なる。普遍的な概念を把握し、理解するには知性に訴えなければならない。だが、微妙な感覚をつかみとるには洗練された感性が必要だ。知性だけでは<感性の国>日本に近づくことはできない。では、感覚的なものと普遍的なものとの出会いはどこで起こるか。アメリカではない。アメリカ人は普遍的なもので頭がいっぱいだから。おそらく日本でもないだろう。日本人は感覚的な快楽を重視しすぎる。むしろヨーロッパで起こるかもしれない。ヨーロッパの人々は感受性の鋭さを持ちつつ、普遍的なものに対して懐疑的でいられるから。その象徴がマルローだ。彼はこの出会いそのものだ。
 
『アンドレ・マルローの日本』p234

――アメリカ人は普遍的なもので頭がいっぱいだ。日本人は感覚的な快楽を重視しすぎる。ヨーロッパの人々は感受性の鋭さを持ちつつ、普遍的なものに対して懐疑的でいられる。その象徴がマルロー――

西洋が権力の証としてつねに追求してきたものは不滅性である。西洋は「知恵を必要としない。(中略)心の静けさではなく、不死を追い求めている」。それを手に入れるためなら手段は選ばない。戦争、暴力、栄光、勝利につぐ勝利。その結果はというと、虚栄、傲慢、権力志向、論争、紛争、無秩序、無政府である。西洋では個人が評価される。人は平気で情熱をさらけだす。生前は死の観念に怯えている。反対に、アジアの人間は生前、自分が死ぬ運命であることを知って(わかって)いる。彼らは死を恐れない。死はその本質において終わりではないからだ。アジアの人間は自分の個性が周囲にとってほとんんど無価値なことを知っている。人はなによりまず共同体の一員であり、共同体は石や草と同じように自然、世界、宇宙に属する。人はたくさんある鎖の環のひとつにすぎないのだ。<坊さん>*はキリスト教と個人の尊重に裏打ちされた西洋的な個人主義を批判し、日本的な「集団順応主義」を擁護する。
 
(* マルローの知人の日本人歴史学者。<坊さん>はマルローが彼につけたあだ名)

『アンドレ・マルローの日本』p187

――西洋人は死の観念に怯えているが、アジア人は死を恐れない。自分が死ぬ運命であることを知っているから。死はその本質において終わりではないとアジア人は考えている