2008年2月24日

平野 「教養」というようなものを形成していく核になるものって何でしょうかね? 例えば子供が生まれたら、何をさせるか。ネットからはいるのか、本から入るのか。梅田さんにとっての両者は、基本的には役割が違うと言うお話でしたが。
 
梅田 そう、役割の違いです。それは物語であれ、哲学書であれば、評論であれ、構造化がしっかりとなされたものを、一ページ目から三百ページまでをずっと順に読んでいくということに子供の頃からやっぱり親しむ、そういう習慣をつけるということんお重要性は絶対になくならないですよね。それが身についていたら、ネットで物足りなくなれば、本へ戻ってくるはずですからね。
 
梅田 「教養」の核になる、読み、書き考える力を身に付けさせてくれるのは、ネットよりも、思考がしっかりと構造化された本だと思いますよ。
 
『ウェブ人間論』p181
 
#ウェブが書籍を駆逐するか、という論議を見事に吹き飛ばす対話だと思う。ウェブの進化と真価が検索にあることを知り尽くしている梅田氏は本の特徴は構造化であり、構造的思考力を身に付けるのは構造への理解力が身に付く本以外にはない、と見抜く。
本が持つ構造化の力を身に付けられ泣ければ、ウェブが持つ検索性を有効活用することはできないのだろう。断片情報だけを入手しても、それは知性へと昇華されえない。
作家の著作にあてはめていえば、まとまった最終作品をそのまま無料でネット公開したほうがいい、という意味では全くありません。その作品に関連する付随情報、作品の制作過程を紹介する「メーキング」的な情報、作品の断片などを、著者自らネットで公開していくのはプラスだと思うということです。
作品の存在を知らなかった人がそういう情報によって存在を知って本を買うと言うプラスの方が大きいと思うんです。
 
『ウェブ人間論』p120
 
#雑誌のWebに携わっていると、製作中の新刊の内容について、どこまで情報を開示すべきかを検討する。情報提供を上手におこなうことで、「webで見たから買わない」人をゼロにし、「webで始めてその雑誌に興味をもった」人を増やす方法を模索している。

平野 身内が犯罪者だとかいうことが最近ではすぐに暴露されてしまうでしょう。リアル社会でも人の悪口、陰口はあるんだけど、そのうち消える。でもネットだと、残りますからね。
 
梅田 ただ、それをみんながおもしろがってどんどん悪い方向に向かうのは、むしろリアル側の狭いコミュニティでより強く起こっている現象なんじゃないですか。ネット上で大事なのは伝播力なのです。書く人がいても、誰も見向きしないというのは、存在しないのと一緒。そう考えることが大切です。これは悪いものだけど面白いぞってリンクを張る人が相当数いると、検索でも上位にくるんだけど、全体でみればそんなにとんでもないことにはなっていないと思う。
 
平野 その自動排除のシステムは、しかし、良し悪しですね。個々人の理性的な判断がそういうものを淘汰するのであれば結構なことですけど、その良さがわからないせいで淘汰されてしまう優良な情報もあるでしょうし。

『ウェブ人間論』p105
 
#すごく本質的な話をしていると思う。
 「秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうことだ」と塩野七生氏は書いている。天才的なひらめきによって発信された「優良な情報」を誰が拾うのだろうか? それに気付く秀才がどこかにいるはずだ。拾われる石は宝石の原石。マックス・ブロートがいなければカフカはいなかった。人類の宝たる「優良な情報」は淘汰ごときでは消えないのが、「真に優良な情報」の条件だと言える。

秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうところにある。凡才ならば理解できないために幸福でいられるのに、神は、凡才よりは高い才能を与えた秀才に は、それを許さなかったのであろう。「神が愛したもうた者(アマデウス)」の偉大さは理解できても、自分にはそれを与えられなかったということを悟った者 は、どのような気持ちになるものであろう。
 
「わが友マキアヴェッリ」P541
僕はネットでブログをやっている人の意識って、だいたい五種類に分けられるんじゃないかと思っているんです。
一つは梅田さんにみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できな自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かりあえる人たち同士で割ときやすい交流が行われているもの。
この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際に公開するという意識も強くないのかもしれない。
四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますがネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気が付かないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
 
『ウェブ人間論』p72
 
#
 この後、匿名性についての議論をはさみ、梅田氏は、「(ブログには)日常では分からないことが現れている。リアル世界で付き合っていても相手のすべてがわかるってわけじゃない。両方合わせて一人のアイデンティティで、「ああ、人間って面白いな」って、僕などは思ってしまう」と答えている。
 夏目漱石の『こころ』でも、主人公が「先生」の心の闇の中を知るのは最終章になってからだ。ひとりのすべてを知ることはできない。人の過去のすべてを把握することはできない。人の未来を予見することはできない。
 人のアイデンティティについて、今後、私は考えてみたい。
 

ハンナ・アレントというドイツの政治哲学者は『人間の条件』という今から五十年ほど前の著書の中で、言論と活動によって結び合わされた人間関係を、図らずも「ウェブ」という言い方で表現しているんですよね。それは確かに、物質的な世界と同じくらいのリアリティを持っていて、人間はそこで、言動を通じて、自分とはどんな人間なのかということを、意図の有無に拘らず暴露してしまう。しかし、その関係性の空間は目に見えないし、保存も出来ないはかないものなので、だから「ウェブ(蜘蛛の糸)」なのだと。現代のウェブ世界は、アレントのこの「ウェブ」が可視化され物質化されたものとも考えられるかもしれません。(p52)
 
これは人間観の問題になりますが、僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。僕だってその内実は他人にとって何の役にも立たない部分が大半ではないかと思う。だけど、、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたちという願望はやっぱりあるんです。(p54)
 
『ウェブ人間論』平野啓一郎/梅田望夫 p52、54
 
#人間同士の関係を点と線として結んでいくと、そこには膨大な網目が見えてくる。私と私の妻の間には夫婦という関係があり、私から妻の方向をみると「配偶者」とラベリングされている。妻から私をみると「夫」というラベルとともに、「給金運搬人」という札もぶら下がっている。この部分に限り、双方からみたとき、この関係に限り、網のこの部分は「赤い糸」だ。
Webが可視化、あるいは物質化という言葉には、テクノロジーによって、この関係は人間関係のリンクの仕方(糸のありかた)について具体化を実現させた、という意味が含まれているだろう。
分類と系統立てには、タグ付けが不可欠だ。人は他人をタグ付けする。タグは情報だ。人がその他人について、知っていることはすべてタグで表現されうる。他人の知らない面を知った時、タグが追加される。人類が思索をはじめた瞬間から続いてきたこの思想はテクノロジーと共に具現化された。「汝自身を知れ」、だ。「私はこういう人間である」とする主張はそこそこに、自身の内なるタグを探すべきなのだろうか。「自分はこうである」は「自分はこう思われたい」に過ぎないのだろうから。
永遠に問い続けるのだろうか。「私は、誰だ?」。