ハンナ・アレントというドイツの政治哲学者は『人間の条件』という今から五十年ほど前の著書の中で、言論と活動によって結び合わされた人間関係を、図らずも「ウェブ」という言い方で表現しているんですよね。それは確かに、物質的な世界と同じくらいのリアリティを持っていて、人間はそこで、言動を通じて、自分とはどんな人間なのかということを、意図の有無に拘らず暴露してしまう。しかし、その関係性の空間は目に見えないし、保存も出来ないはかないものなので、だから「ウェブ(蜘蛛の糸)」なのだと。現代のウェブ世界は、アレントのこの「ウェブ」が可視化され物質化されたものとも考えられるかもしれません。(p52)
これは人間観の問題になりますが、僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。僕だってその内実は他人にとって何の役にも立たない部分が大半ではないかと思う。だけど、、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたちという願望はやっぱりあるんです。(p54)
『ウェブ人間論』平野啓一郎/梅田望夫 p52、54
#人間同士の関係を点と線として結んでいくと、そこには膨大な網目が見えてくる。私と私の妻の間には夫婦という関係があり、私から妻の方向をみると「配偶者」とラベリングされている。妻から私をみると「夫」というラベルとともに、「給金運搬人」という札もぶら下がっている。この部分に限り、双方からみたとき、この関係に限り、網のこの部分は「赤い糸」だ。
Webが可視化、あるいは物質化という言葉には、テクノロジーによって、この関係は人間関係のリンクの仕方(糸のありかた)について具体化を実現させた、という意味が含まれているだろう。
分類と系統立てには、タグ付けが不可欠だ。人は他人をタグ付けする。タグは情報だ。人がその他人について、知っていることはすべてタグで表現されうる。他人の知らない面を知った時、タグが追加される。人類が思索をはじめた瞬間から続いてきたこの思想はテクノロジーと共に具現化された。「汝自身を知れ」、だ。「私はこういう人間である」とする主張はそこそこに、自身の内なるタグを探すべきなのだろうか。「自分はこうである」は「自分はこう思われたい」に過ぎないのだろうから。
永遠に問い続けるのだろうか。「私は、誰だ?」。