聴いたことも、考え、そしてまとめないかぎり、シェンツァ(サイエンス)とはならない(マキアヴェッリ) 思考、知識は第一次的である。その同種を集め、整理し、相互に関連づけると第二次的な思考、情報が生まれる。これをさらに同種のものの間で昇華させると第三次的となる(外山滋比古) などなど考えつつ、読書メモ。
2011年4月21日
ホラーとミステリ
わたしはホラー映画や小説は好きです。
一方、ミステリ小説やドラマはあまり好きとは言えません。
ホラー映画には多くの場合、死についての考察が含まれているからです。
脚本家や監督の価値観に基づく思想です。
これらの思想には、時には解きようのない「謎」が含まれています。
ミステリドラマは、事件の発生と解決を論理的に、多くの場合はトリックを交えながら物語が進んでいき、死そのものはあまり考察されません。
物語中の死者と生者の行動と思考がクローズアップされ、解の見つかる謎掛けで構成されています。
ミステリでは、「死」ではなく「殺」が焦点の対象だからかもしれません。
■焦点の違い
どうやって死んだのかよりも、なぜ死なねばならのかったのかについて、作者(あるいは監督など)がテーマとしている方が、鑑賞対象として好みなのだと思います。
もちろんミステリのなかにも、死についての深い洞察を含めつつ、エンタテインメントとして昇華している良作も少なくないでしょう。
反対に、ホラーにも“おバカホラー”という軽〜いノリの作品群があることも事実です。
ですが、その作品の「後味の良し悪し」は別として、わたしは「一件落着」で終わることが好みではないのだと思います。
そのホラー映画の監督が変態で思想的に奇人で作品も常軌を逸している場合があっても、それもひとつの直視する「監督の頭のなかの現実」(ひとはそれを「空想」と呼ぶかもしれないけれど)にほかならない。
『エイリアン』は異星人による殺戮を描いているけれど、逃げ惑う人、抵抗する人、そういう「生き方(生存本能、あるいはサバイバルに直面する行動)」が焦点になっていると思います。
でも、「ナゾトキ」ミステリは、用意された綱をたぐっていけば、解答までたどりつけるようになっています。
登場人物の生き方云々ではなくて、「ロジック(あるいはトリックや仕掛けの機械的な矛盾のなさ)」の奇想天外さや面白さに焦点があたります。
一方、「ナゾカケ」ホラーは、解答がない。見るひとが感じたり、考えたりするままでいい。
作者は一定の結末を物語に与えているとしても、つじつま(ロジック)の整合性がとれているとは限らないです。
箱庭を完璧に「管理」するなら、ロジックの楽しみ方でいいと思います。
しかし、自然の庭を「手入れ」するには、あるがままを受け入れるしかない場面にも出くわします。因果関係を「理解」はできても、「操作」はできないように。
わたしは、その「操作できない」こと、偶然性、自然(じねん)、などなど、「どうにもならないこと」がテーマになっている作品が好みだったりするし、そこに面白さを感じるのでしょう。
『シックスセンス』や『アザーズ』はナゾトキか、ナゾカケか。
解説はできても、解答とは言えない、とか。
■恐怖と神秘の違い
わたしは映画評論家ほど、多くの作品をしっかり鑑賞しているわけではありませんから、あくまで自分の見た範囲での話になってしまうけれど、「この 仕掛け(ロジック:ナゾトキ)は面白いだろう?」という作者の姿勢がうかがえる作品よりも、「私に描けるのは、この物語世界のなかで起こった事の、ほんの 一断面に過ぎません(ナゾカケ)。書かれている事は『部分ですが物語としては全て』であり、書かれていない範囲こそが『全てを含む全て』なのです。これ表 現できません」という作者の姿勢に好感をもつのです。
ホラーが「恐怖」で、ミステリが「神秘」。
この訳語もおもしろいな、と思います。
恐怖は内側にあり、神秘は外側にある。
内側には触る事はできず、外側にある「神秘っぽいもの」の多くはハリボテか偽装です。
なんとなく恐怖は暗闇を、神秘は光明をイメージさせます。
人間の目は光を知覚できる。知覚できるものがない状態が闇になります。
闇は知覚できません。
闇が知覚できないように、謎を解くこともできない。。
もし「謎が解けた」と思ってその「謎」というドアを解錠できても、次の部屋にはドアが2つある。
もし「謎が解けた」と思ってその「謎」という疑問を払拭しても、判明した事実には次の謎まみれ。
ナゾカケホラーは、ときに意味不明でも、意味も不明も、合致する既存価値観がないだけ。
ナゾトキミステリは、かならず合致する既存価値観や方法論からは外れません。
ホラーにいるのは作者という人間の内側の闇。
ミステリにあるのはハッキリと触ることのできる功名心という刺々しい物体。
推理小説の登場人物が、つかむことのできない闇をもって描かれているならば、わたしはそれはホラー小説だと思っています。
殺人方法は探偵によって解明されても、殺人動機には「手ざわり」がないからだ。
凶器は握れるが、狂気は触れられません。
■ホラーは文学的
だからときにホラーは純文学に匹敵します。
ミステリドラマの殺人犯は、「現実にいそうにない人間」ばかり。
わたしは物語中の「実際にいそうな人間」に関心があるから。
怪奇もの、心霊ものなどのホラーもそう。
低予算映画のヒット作の多くがホラーなのもそう。
「現実」に似せていく事と、予算は正比例はしない。
破綻のないロジック(芝居)は、船越英一郎の岸壁の説得シーンだけで十分。(笑)
ナゾトキは饒舌。
ナゾカケは寡黙。
ナゾトキの世界は小さく、ナゾカケは世界そのもの。
作者が「死と生」と「人間と自然」をどう扱いたいのかによって、ホラーとミステリがわけられるのでは。
わたしの考えはこんなところで、両者を区分けしているのです。
つまり、命についての表現上に関する思想あるいは自分なりの考え方なのです。
2011年4月20日
楽譜
■楽譜は遺産
楽譜は「記録」だから人類の宝物であり未来へ引き継ぐべき遺産。
楽器は「道具」だが過去の名匠の作品だから二度と製造(制作)出来ない点で、やっぱり人類の宝物であり遺産。
管楽器の多くには産業革命以降の工業生産品的側面もあるけれど、日用品と同じというわけではない。やはり一本一本が遺産だと思います。
現代人はそれを「過去から預かって(あるいは過去のものを基に、自分たちで新規に創造して)」未来へ渡す役目がある。
これは何百年経とうとも、「その時々の現代」が担うことに違いありません。
「楽譜や楽器はお前の命より重い。事故に会ったら死んでも守れ。子供だと思って守れ」
これはわたしの恩師の言葉。(一部改変)
■楽譜は「お預かりするもの」
別にわたしは、ガリ版刷り時代における楽譜の貴重さや、貴重な原譜の入手困難さや高価さを思い出してノスタルジーを感じたいわけではない。
コピー機登場後のことや、ましてや近年はPDFで手に入る安易さを見くだしているわけでもない。
ただ、「この楽譜は、数十年、数百年にわたって、守られて伝わってきたもの」という意識や、新曲の場合でも「作/編曲者が人類初の“何か”をここに生み出してくれたもの」という気持ちを大切にしていきたいな、と思っているだけ。
それは人を尊敬する心だったり、あるいは畏敬の念をもつことに近い。
「謹んで、お預かりいたします」
「よろこんで、演奏に善処いたします」
べつに、これらは自分を卑下していることにはならない。
運動会のリレー。そのバトン。
前の走者から受け取る責任、走る責任、次の走者に渡すまでの責任。
別に、「駅伝のたすき」でたとえてもいい。
「謙虚で本気」
「遠慮して全力」
そういう気持ちがなにごとも大切だと思うそんな午前3時です。
■楽譜を「返却」するという考えかた
読みやすいきれいな楽譜が容易に手に入る(あるいは作る事ができる)こんな時代だからこそ、「(楽譜入手の困難さが)骨身にしみてわかる」なんてことは起こりにくい。
わたしは、それを補うのは「想像力」だと考えています。それに、想像力を雲だとすると、雲を構成する水蒸気が「論理」だとも。
想像力と論理的思考。
「楽譜が手に入らなかった過去の時代をイメージして、今を『ありがたがる』」ことではないですよ。
「この『巡り合わせ』あるいは『縁』で、わたしは演奏機会を得ることができました」という想像力です。
思い出を持つのは個人の自由ですし、思い出はその人だけのものです。
でも、楽譜は、もっと大きな「自分以外の人のもの」だと思うのです。
わたしが楽譜を団体に返却するのはそのためです。
わたしが使った楽譜が使われる事は2度とないかもしれませんけれど、「わたしがその楽譜に寄り添った時間」は、奏法や表現方法の指示や注意書きとして残る。
主役はわたしではないんです。「楽譜>楽器>自分」の順番。
「わたし」が「別の奏者」に代わっても成立する。
「わたしと楽器」が「別の奏者と別の楽器」になっても音楽はそのまま。
でも「楽譜」が変われば「それは別の音楽」なんです。
■「風船的人間」にならないために
これは「逆説的エゴ(過剰自虐的自意識過剰)」でしょうか?
そうはならないと思います。
世界の中心が自分でない自覚があれば、「実は世界の中心なんてものはない」ということに気づきそうなものです。
一方で、「世界の辺縁にいる自分の中心」は確かめられると思います。
「自分の現在地」は分かりえなくても、「自分を形成している『自分の中心』」は探したらみつかりそうなものです。
これが見つからなければ、芯のない、風船でしょう。
表面張力で外見を保っている人間がいるとすれば、そんな風船的人間かも。
でも、力学的には風船にも中心がある。
その中心点には何がある? 自問です。自問“他”答。
わたしにとって、「楽譜と、楽譜的位置づけだと思える文書」がその点になっていそう。
「過去から、うやうやしく受け取る。未来へ、厳粛な気持ちで引き渡す」
楽譜って、そういうものかなぁ、と。
楽譜の話からはじまって、ずいぶん飛躍したけれど、まあ結論は「楽譜はあなたのものではない。もちろん、わたしのものでもない。大切に扱いましょう」ってとこくらいの話。
内容云々よりもこの取材姿勢に噴飯
モテる楽器を始めるぞ
http://career.cobs.jp/level1/yoko/2011/02/post_892.html
---------
この手のランキングをニュースでみるのは最近だけでも3度目かな。
いままでで一番ヒドイ内容に噴飯。
>「楽器ができる男はモテる」(中略)いくらかかるのか分かりにくい。
↑
「モテるために楽器を始めるには¥がどの程度必要?」という内容に噴飯(←コンビニの「唐揚」を噴いた)。
楽器に投資するくらいなら、ちょっとイイ車を買うとか、英語を勉強して(相手が英語が苦手な事が前提だけど)外国旅行でエスコートするとか、そういう方が「モテる」と思うのだが。
(一番モテるのは、お札でふくらんだ財布をチラ見せすることさッ!←高い確率で間違いない)
>筆者にはほとんど縁のない楽器なのでノーコメント。
↑
おい、取材してこいよ!!(笑)
わからないことはパスというライターの姿勢に噴飯(←おやつのミカン)。
>最低金額を東京・お茶の水の有名楽器店の一つ、下倉楽器のオンラインショップで調べてみました
↑
お茶の水の店に行ったのかと思いきや、Webで調べただけとかにまた噴飯。(←こんどはコーヒー)
たとえば、『実際に、モテたいがために楽器を始めたいという相談はあるのでしょうか? 下倉楽器の○○さんに聞きました』くらいのインタビューでもしてほしいものだ。せめて電話でもいいからさ。
>挫折しない覚悟があるならば、エレキギターで6万円、アコースティックギターで3万円程度の予算で
↑
高いものを買う事で「よし、この楽器を頑張るぞ!」と考える、という発想はないのか。
まずはお手軽に初めてみようというアプローチに噴飯(←おやつのブラウニー)
>そろえれば、取りあえず独学が可能
↑
そろえただけで実現するのは、「学習が可能」ではなく「インテリアの飾りになる事が可能」ではないんではないか。
独学で身に付くと思っている水準に噴飯(←胃液)
COBS ONLINEのライターはこれで原稿料がもらえるのかな。
3千円くらいはもらっているのかな。
とにかく噴く場所が多くて、そのことだけでも噴く。
俺の周囲の俺の噴飯物の片付けをせねば……
↑
俺もたいがいな下劣さである。
ヴァイキングの末裔のチェリスト軍団
北欧といえばヘビメタやデスメタルの名産地(?)だし、神話的な内容でシンフォニック、叙情的なメロディのメタルがお家芸になってきている気がする。
「反キリスト教的思想」音楽が成立するのも「キリスト教地域」だからこそ、という感じはするし、アンチクライストがイタリアやフランスよりも北欧 の方が根強いのは「キリスト教化」される以前の「古スカンジナビア」の回帰とかとか、メタル評論家の方々が語りだしたら止まらないようなウンチクもいろい ろあると思う。
わたしはこのジャンルについて詳しくはないけど、「ナイトウィッシュ」というバンドは好きだな。だってカッコイイじゃん。
アポカリプティカはチェロのバンド。こういうのもありだよね、っとは思う。
ある意味で「チェロらしい」。
『アーマゲドン』
(apocalyptica Armageddon)
『山の魔王の宮殿』
(Apocalyptica "Hall of The Mountain King" (official full length live video) )
パッとみ「勢い」がすごいけど、「入念なリハーサル」に裏付けられているパフォーマンスなんだろうな、と思う。
熱狂の底流の冷静さ。
「業界」と「事業内容」
に対して、
「自動車企業の人気ランキングとして「トヨタ」「クロネコヤマト」「高速道路公団」と書くと、比較する会社おかしいんじゃないの?と言われるけど、 IT企業だとおかしいと思わない人が沢山いると思う。特に学生は区別ができていない人が多いと思うマスコミの責任かな?」
という書き込みがあり秀逸だと思った。
http://
「IT企業」っていうくくりかたは、「大工もゼネコンも工務店も水道屋も電気工事屋もそれらのパーツメーカーも卸業者もビル管理会社もひっくるめて『建築会社』」と言っているのに等しいな。
実際問題、収縮活動中の学生に「楽天、NTTデータ、富士通は『IT関連企業』だが、これを横軸としてくくる場合、別の視点(縦軸)で分けると、どのように分けられるか」と問題を与えたら、正答率はどれくらいのものだろう。
合掌……
TVや新聞では掲載される事のない事実の直視。
瓦礫の間のご遺体、棺、体育館での遺族との面会、葬儀、埋葬。
プロの写真家の目を通して、私たちもそれを見る。
お亡くなりになったかたがたの冥福を祈るとともに、
一日も早い復興を願わずにはいられません。
募金についての私見
アメリカなどのTV番組をみると、「募金するためにバイトをしてそのお給料を送る」というシーンをしばしば見かける。
子供たちも『自分にできること』を見つけ、実行していると思える。
あるいは周囲の大人が適度にアドバイスをしているのだろう。
「お小遣いが足りないなら、働いて、自分のお金を寄付するのよ」って。
一方、日本。
街頭・駅前で
「ボキンボキン!オネガイシマスオネガイシマス!」
と大声を出している子らをあまり好きになれない。(´・ω・`)
それは本当に『きみにできること』なのか?
善意ではある。
だが、その「善行」という立て看板をはずすと、行為の本質は他人の金をせびる行為だ。
■街頭・駅前でできること
「日赤への義捐金の振り込み方」チラシを配るとか、
「学生のみんな! バイトして金を送ろう!」と訴えるとか、
そういう方なら評価する。
辞書にはそういうことは、『啓蒙』という言葉として載っている。
群れてカロリー消費して「今日はボクたち頑張ったね感を満喫」してるのではないか?
「労働」をするのと同じように、“雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ” に その街頭に立つ自信はあるのか?
「The Big Issue」を売るオジサンたちと同じように街路に立って、黙々と募金活動をし続ける気概はあるか?
■エネルギーと時間の費用対効果
小額でも集まれば大金になるのはわかる。
だから効果ゼロとはいわない。
でも時給換算して、「若い学生たちのエネルギーと時間」の投資対効果として、適切なのかは疑問。
一生懸命勉強して、一日も早く、国家を動かせる権限をもつ政治家/公務員を目指すとか、事業を成して利益を還元する実業家になるとか、そういう目標をもって「その若いエネルギーと時間」を使う方がいいのではないか?
「ソフトバンクの孫社長は100億円を寄付した。僕はそれ以上を寄付できる大人になる」とか
「総理大臣になって非常事態の迅速解決を最優先するリーダーになりたい」とか
そういう方が、わたしは好きだな。
■「いま」のことは「いまの大人」の仕事
義捐金は「いま必要とされている」から、そんな悠長なことはできないとか、そう言う人もいるだろうけれど、「非常時に備えられる大人」を目指すことが本分ではなかろうか。
ならば、「いま」に対し、「備えていた大人」はどれほどいるのか。
この大人たちを反面教師にする考えはどうだろう。
善意や義勇心には共感する。
『きみにできること』を考えてもらうにはどうしたらいいだろう。(´・ω・`)
■被災地はがんばるな、非被災地はがんばれ
被災地にガンバレガンバレ言うのはほどほどにしたい。
ガンバらなくてもいい暮らしに一日も早く戻してあげますよ、そういう声を掛けてあげる方がいいのではないか。
張りつめた糸を、「もっともっと」と引っ張れば、切れてしまう。
四六時中緊張している人々に、「もうがんばらなくていいんだよ」と言える日をたぐり寄せるのは、「非被災地住人のがんばり」にかかっているのでは。
でもその「がんばり方」は、街頭・駅前でカロリー消費することだけではないはずだ。
世界水没地図

「(地球温暖化などで)海面水位が上昇した場合」をシミュレーションするサービスが興味深い。
おそらく、等高線の情報をもとに作っているのだと思う。海面水位は画面左上のプルダウンで選択できる。
http://
画像はこのシステムによって水位が最大60メートル上昇した場合の想定水没地域。
1メートル、海面が上昇すると、千葉県茨城県の境の利根川沿いや霞ヶ浦付近の水田地帯がだんだん浸水していく。都内は隅田川や多摩川河口付近で浸水がはじまる。
2メートル。
羽田空港付近の水没が始まる。
江東区、墨田区、葛飾区、浦安市、船橋市、松戸市、八潮市、三郷市あたりの河川沿いが溢れ出す。
千葉は印旛沼や手賀沼付近が浸水していく。
3メートル。
成田付近から我孫子にかけての水田地帯が浸水していく。
都内は中川、隅田川、江戸川流域が徐々に水没していく。
房総半島は千葉市沿岸部や市原から袖ヶ浦・木更津に掛けて海岸線が内陸に寄っていく。
九十九里浜は海底になる。
4メートル。
利根川沿いの浸水はつくばみらい市にも迫る。
神奈川県では川崎市、横浜市の水際は水没する。
九十九里浜はなくなり、水は茂原や東金の手前に至る。
5メートル。
利根川の河口はまるごと入り江になる。
墨田区から板橋区にかけての高台は残るが、23区のうち低地地帯は沈む。
6〜9メートル。
江東区、墨田区、品川区、江戸川区、葛飾区、足立区、浦安市、から市川市、松戸市、三郷市、草加市、流山市、越谷市、戸田市までは東京湾の一部になる。
利根川付近に広がる太平洋の入り江は、野田市あたりで東京湾とつながりはじめる。
13メートル。
房総半島は島として孤立する。
千葉は126号線に沿って海岸になる。
静岡県も富士から沼津に掛けての低地が水没する。
20メートル。
東京湾は幸手、久喜、加須を超えて、館林、熊谷、古河、下野市にまで至る。
茨城県南部は筑波山付近を残して水没する。
神奈川県も平塚、茅ヶ崎市の相模川河口は海の下。
30メートル。
関東平野は関東湾になる。
千葉島は細かい川をたくさんもつ、南北に細長い島になる。銚子付近は離れ小島。
40メートル。
飯能、日高、入間、東村山、所沢府中、多摩、町田市あたりが海岸線になる。杉並区半島になる。
60メートル。
三浦半島は大楠山付近のみが残って島となる。
相模鉄道本線沿いの大和市、座間市の一部が半島になる。
千葉島は南部の山間部のみが太平洋に残される。
北部は藤岡から栃木、鹿島への東西のラインが海岸線に。
この水位になると浜松から名古屋の木曽川流域は水面下になり海岸線は岐阜付近へと迫る。大阪も水没し、奈良付近が出島のように突き出る半島になり、大阪湾は京都のすぐ南にまで迫る。
本来、江戸は「武蔵野国」の低湿地帯であった事実を思い出す。
だいぶ前に完結したわたしの好きな漫画『横浜買い出し紀行』では、地球温暖化による水位上昇と富士山噴火という天変地異の後の関東のゆっくりと滅んでいく姿を「凪の時代」「黄昏のころ」と表現して独特の空気感をもつ漫画になっていた。
他にも水位上昇を描いた作品としては、わたしの知る範囲では安部公房の小説『第四間氷期』がある。前半は「未来予知機」を巡るSFサスペンス。後半はその後の人類を切なく描く。
「遠い未来の話じゃ、自分は死んでるからいい」って? いやいや、そんなこと言わないで。予測とは、そういうものだって。
2011年4月12日
電子書籍は普及予測を過去の例から
わたしはいつだって「前例尊重主義」だ。 電子書籍が普及するか? 否か。
あまたの情報記録媒体が生まれ、消えていった中で、「石盤」「粘土板」「パピルス」「木簡」「羊皮紙」を「紙」が“下位互換”を済ませて普及するまで約1500年を要した。
(*前漢時代に発明され、ヨーロッパが羊皮紙から紙へ移行した近世初期までと考える)
従って「紙に習って電子書籍は普及する」と導きだせる一方、「ひとくちに『紙』といっても種類や製法は千差万別だ。同様に、電子媒体も千差万別で、テクノロジーの発展とともに変化し続け、ゆっくりと普及していくだろう。(というような気がする)
さらに遡れば、石盤(あるいは骨だとか亀の甲羅だとか、そういう『書き込む媒体(メディア)』)を使うようになるまで――つまり文字の発明=記号の登場とほぼイコール――には数万年を要した。
電子書籍は普及するが、爆発的普及ではなく、規格化されながらじわじわと浸透していく。
そんな予測をしている。
2011年1月1日
「アザーズ」か「6センス」のような
男が街角の公園で子供に迷惑をかけられたので因縁をつけ、「てめぇの母ちゃんから慰謝料をもらわないとな!」と出かけていったら、いくつかの怪現象を経て、団地へ。
通常、駐車場などがあるスペースが墓地。
つい先日、大きい火災があったばかりのようで、普通の墓とは別に、素っ気ない作りの墓がいくつかまとめて並んでいる。
すすり泣く人が何人かいる。
目的階は4階。エレベータをみると高層階行きと、5階から中層階までの2基が並んでいた。4階にいけるものがないぞ、と焦ってあたりを見回すと、背後に小さいエレベータがあり、2〜4階行きだった。貨物用のような……あるいは棺桶のようなエレベータ。
4階は火災があったフロアらしい。
目的の家に着く。子供の母親とおぼしき女性を脅したりしながら部屋を物色。
男は真っ黒な戸棚を見つける。しかしなかなか開かない。
いくつかの怒鳴り合いのようなやり取りを経て、男は、自分がこの部屋で、火災で死んだことを思い出す。
この真っ黒な戸棚こそ、自分が死んでいたことを忘れさせていた装置だった。
男は町へさまよい出る。
くる途中、怪現象だと思っていたものが、お仲間だと気づく。
昼でも夜でもない時間帯の空。
というシックスセンスのような、アザーズのような夢が初夢でした。
この夢に続いて、もう2、3の短い夢を見たような気がしますが、それらは忘れました。
2009年4月28日
「ロールモデル思考法」考
「なりたい誰か」でも「目標のあの人」でもなく、「あの人のこの部分、この人のあの部分」の総体として自分の重い描く姿を具体化してくことで、ムダな迷いを減らすことができる。
--------
「好きなこと」「向いたこと」は何かと漠然と自分に向けて問い続けても、すずに煮詰まってしまう。頭の中のもやもやは用意に晴れない。ロールモデル思考法とは、その答えを外界に求める。直感を信じるところから始まる。外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のありとあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分と波長の合うロールモデルを丁寧に収集するのである。
(「ウェブ時代をゆく」 p119(第四章 ロールモデル思考法))
--------
わたしはGTDなどを通じて、とにかく頭から吐き出すこと、リスト化すること、具体化、可視化などを念頭に置いてきた。だからこの「お手本を選び続ける」という手法はすんなりと受け入れられた。これは間違いなく有益な方法だ。
「なりたい自分をどうやって見つけ出すか」について、最近も就職活動に邁進する学生と話し合ったばかり。好きなことをやれ、個性を活かせ、などといわれても、学校では「好きなことをやらせ」「個性を重視」する教育はまだまだ手探りだ。そんな中で、無責任に「個性神話」を押し付けられてきた学生たちのなんと哀れなことかと思う!
ロールモデル思考法は、こうした学生に、ぜひ実践してもらいたい考え方だ。
おもいつく限り、「こうなりたい自分」の「部品」を集めてほしい。
小学生であれば「将来の夢は野球選手!」でいい。だが中学生なら「宇宙飛行士を目指したい。だから英語と数学と物理を勉強して、肉体も鍛えてJAXAに入る」というロードマップを描いて欲しい。高校生ならロードマップ上で「いつまでにどこまで達成している必要がある」というようなマイルストーンの設置をしてほしい。その中で「人間としての成長」のために、既にいる人(過去の人、あるいは周囲の大人)を手本にするのがよいのではないだろうか。
なりたい自分を完璧に定義することは、だれでも困難だし、ひとことで言い切れるような単純な人間には、案外なれない。「目標は“医者”です! “弁護士”です! という特定の肩書きや資格を得るだけじゃなくて、もっと具体的に「どの医者(弁護士)たちのような」といったところまで踏み込むべきだと思う。
そうすることで「なぜ(総体としての)医者なのか」「なぜ(具体性をもった)その人たちなのか」を導きだせると思う。
書いていたら、すこし自分の意図とズレてきた感じがするので検討を中断。
「ロールモデル」の引き出しを増やすために、学生向けの手法としてはリスト化が有効であるという仮説については、また検討を続ける。
2009年4月11日
年度末に思うこと
通勤路で見かける様々なもの。
カラスとスズメとハトの違いは分かる。
でも他の都市の鳥は?
皇居のお堀のハクチョウと、線路の高架下のツバメは知っている。
でも他の渡り鳥のことは?
イチョウとサクラはひと目で分かるし、落ち葉の形にも愛着がある。
でも他の樹は?
ススキとタンポポの名前は知っている。
でも他の雑草は? 七草もソラで言えるかどうか。
鳥も、樹も、草も、そうした目につくもののことをちっとも知らない。そんな自分の存在に、午前6時の通勤時(あるいは退勤時だったか)に気づく。
一日の大半を、PCの画面か、紙を見て過ごす。
絵も見ない。
通勤で下車駅に国立近代美術館があるけれど、竹橋を渡ったことはない。
画集はすべて、二束三文で古書店に持ち込んだ。
音楽も聴かない。
CDは手元にない。iPodを買う予定もなし。
来日演奏家のスケジュールも知らない。
本は少しは読むけれど、小説は少なめ。
詩はもっと少ない。
仕事で大量の文章を書くし、メールや郵便物も多く作る。
でも……
「お世話になっております……
「おつかれさまです……
たいていはこの2句のどちらかではじまり、
「何卒宜しくお願い致します……
で終わる。
路上で、肩を耳に引っ付けるようにして、薄っぺらい携帯電話で話をしながらウンコ座りで必死にメモをとるビジネスマンの姿は、今じゃ普通。
通勤で、バッグを持っていない人を見かけることはあまりない。
B4とか、A3くらいの大きいサイズが多いように思う。
何をそんなに、持ち運ぶものがあるのだろう? と考え込んでしまう。
しかし私も、全財産(あるいはアイデンティティ)を背負って歩いているオタクなわけで、「『持たない』っていう美学」を両肩からタスキ掛けに下げているに過ぎない。
故・城山三郎の日記が出版されていたのでを少し立ち読みしたときに、『どうせ、あちら側には手ぶらでいく』というフレーズを見た。
二十代のわたしには、「どうせ」の諦観を完全に理解することはまだできないが、「あちら側には手ぶらでいく」には同感だ。火葬場の印象については以前書いた。
(2007年10月6日「火葬場の印象」)
あの、「何もなさ」感が、わたしの感じる「どうせ」だ。
--------------
「死ぬ」って言葉は、動詞です。動詞は動きを示すわけですけど、死体は動きませんよ。死体になるまでは、死んでいないわけです。それなら「死ぬ」って、どの時点の話ですか。脳死の議論のときに、「もはや死に向かって不可逆的に進行するしかない状態」なんていう定義がありましたけど、それなら脳死の定義じゃなくて、人生の定義ですよ。(養老孟司『運のつき』)
--------------
だから、「どう生きるか」でしょ、と。
人は去る。しかし作品は残る。
JobやWorkはすぐに忘れられる。Operaは残る。
とはいえ、そんなに肩肘を張って、鼻息を荒くしたって、何も作れやしない。
(鼻息といえば、水木しげるの漫画の人物を連想してしまう)
まあ、で、書きながら、このモヤモヤしているものは何だろう、と思っていたら、ひとつわかった。
わたしに必要なのは、休息だって、ことかなあ、と。
マルロー
1931年に初めて日本を訪れて以来、マルローがなにより知りたかったのは、日本が完全な孤立主義だったにもかかわらず、なぜ壮大な過去を築きえたかということだ。政治の変遷や、日本独特の社会制度、機構ができた背景はそれほど重要ではない。そうしたものはつねに進化し、方向性が変わるからだ。マルローから見て最も重要なことは、(好奇心に乏しい西洋人にはほとんんど理解できない)日本独特の思考スタイル、(自尊心の強すぎる西洋人から見ればほとんど意味をなさない)日本の文化や歴史の壮大さ、豊かさ、そして(時間的にも精神的にもゆとりのない西洋人にはわかりづらい)何世紀も変わらずに続いている日本独特のアイデンティティの形と強い精神性だった。
『アンドレ・マルローの日本』P72
アメリカは剛毛で、日本人は和毛です。日本人は真似するが征服されない
アメリカが私どもを改宗させることはないでしょう。だが連中はそこにいる。現実には私どもは一度も征服されていません。ただの一度も。私どもはよく連中の真似をします。じつによく真似ています。それもずっと以前から。そのことで私どもは攻められています。今では産業組織がいくつかあり、百万長者が何人か出てきた。連中のよりも有力な新聞がある。発行部数はなんと六百万部です。テレビだって連中のよりも有力だ。ひとつだけ、絶対に大切なことがある。私どもは一度も……ね……一度も魂を失わなかったし、これからも失うことはありません。連中の強力な力にはなんの根拠もない。勝者であることはいい。大切なことです。
(中略)
アメリカは剛毛で、私どもは和毛です。お稲荷さんの狐のように。世の中は愛撫なくして生きられない。(中略)アメリカ人は、人生と言えば男と女の人生だと思っている。(中略)私ども日本人は、人間とお狐さまと藤の花のあいだに絶対的な違いがないことをずっと前から知っています。
マルロー『反回想録』
間投詞「ね」は「ねぇ、そうでしょう」の意味だろう。マルローは面白がって、そのまま採録している。
『アンドレ・マルローの日本』p75
マルローの疑問:日本の絵画はヨーロッパ人に本当に理解されたのか?「芸術における誤解とは何か」
マルローは浮世絵と、浮世絵がフランスやヨーロッパの画家にもたらした影響の重要性を認める一方で、日本の絵画が本当に理解されているかどうか、自分自身正しく理解しているかどうかに疑問を抱く。(中略)「日本の偉大な作品」に対する自分の賞賛の念はおそらく「誤解」に基づくものだろうと言っている。「フランスの画家は浮世絵以外の日本の芸術をよく知らない」。その逆も言え、フランス印象派に対する日本人の賞賛の念は「誤解に基づいている」かもしれない。だが、「芸術における誤解とはいったいなにか」(中略)「大切なのは知識を広げることではなく、一致点や豊かな相違点を把握することだ。その極端な例は、日本の版画が西洋絵画に及ぼした、一見不合理な影響だろう」(中略)日本は「魅力的な版画にすべてを頼っている国ではない」とマルローは一九六〇年の日仏会館竣工式の演説で言っている。「真の日本、それは十三世紀の日本の偉大な画家であり、藤原隆信であり、またあなたがたの(古い)音楽であって、浮世絵ではない」
『アンドレ・マルローの日本』p95
――大切なのは知識を広げることではなく、一致点や豊かな相違点を把握すること。――真の日本、それは十三世紀の日本の偉大な画家であり、藤原隆信であり、また古い音楽であって、浮世絵ではない
知性だけでは<感性の国>日本に近づくことはできない
「アメリカは昔も今もキリスト教国で、これからもそうありつづけるだろう」と加藤周一は言う。「日本と異なり、アメリカは正義という観念をこれからもずっと大切にするだろう。つまり善と悪、正義と不正だ。日本は美しいものと心地よいもの、醜いものと不快なものといった観念にこだわり、普遍的な正義の観念については、本質的には永久に理解できないままだろう。というのも日本は個人主義の国ではなく、個別主義の国だから。感覚的なものは人によってすべて異なる。普遍的な概念を把握し、理解するには知性に訴えなければならない。だが、微妙な感覚をつかみとるには洗練された感性が必要だ。知性だけでは<感性の国>日本に近づくことはできない。では、感覚的なものと普遍的なものとの出会いはどこで起こるか。アメリカではない。アメリカ人は普遍的なもので頭がいっぱいだから。おそらく日本でもないだろう。日本人は感覚的な快楽を重視しすぎる。むしろヨーロッパで起こるかもしれない。ヨーロッパの人々は感受性の鋭さを持ちつつ、普遍的なものに対して懐疑的でいられるから。その象徴がマルローだ。彼はこの出会いそのものだ。
『アンドレ・マルローの日本』p234
――アメリカ人は普遍的なもので頭がいっぱいだ。日本人は感覚的な快楽を重視しすぎる。ヨーロッパの人々は感受性の鋭さを持ちつつ、普遍的なものに対して懐疑的でいられる。その象徴がマルロー――
西洋が権力の証としてつねに追求してきたものは不滅性である。西洋は「知恵を必要としない。(中略)心の静けさではなく、不死を追い求めている」。それを手に入れるためなら手段は選ばない。戦争、暴力、栄光、勝利につぐ勝利。その結果はというと、虚栄、傲慢、権力志向、論争、紛争、無秩序、無政府である。西洋では個人が評価される。人は平気で情熱をさらけだす。生前は死の観念に怯えている。反対に、アジアの人間は生前、自分が死ぬ運命であることを知って(わかって)いる。彼らは死を恐れない。死はその本質において終わりではないからだ。アジアの人間は自分の個性が周囲にとってほとんんど無価値なことを知っている。人はなによりまず共同体の一員であり、共同体は石や草と同じように自然、世界、宇宙に属する。人はたくさんある鎖の環のひとつにすぎないのだ。<坊さん>*はキリスト教と個人の尊重に裏打ちされた西洋的な個人主義を批判し、日本的な「集団順応主義」を擁護する。
(* マルローの知人の日本人歴史学者。<坊さん>はマルローが彼につけたあだ名)
『アンドレ・マルローの日本』p187
――西洋人は死の観念に怯えているが、アジア人は死を恐れない。自分が死ぬ運命であることを知っているから。死はその本質において終わりではないとアジア人は考えている
2008年8月18日
2008年6月14日
「コンテンツ」考
コンテンツ考
仕事柄、ビジネス書やマーケティング、Web 2.0だとかのIT関連書に目を通す機会が多い。
その際に、常々疑問に感じているのが「コンテンツ」という言葉(あるいは表現)だ。
content
【名】{ないよう(ぶつ)}{なかみ}{ざいちゅう ぶつ}入っているもの、内容(物)、中身、在中物、目次
http://eow.alc.co.jp/content/UTF-8/?ref=gg
コンテンツの意味するところは、上記の通り、情報産業においては「情報の中身」となる。
「その情報についての情報(関連情報)」メタデータや、「情報伝達のための手段」インフラストラクチャーとセットになっている。
料理自体は「コンテンツ」、と例えるならば、その料理を作ったOZAKIシェフが一つ星であることや、店であるリストランテオザキについての情報、あるいはその料理の材料が直輸入のイベリコ豚と北海道のOZAKI農園で採れた野菜を使っている、などの他諸々の情報は「メタデータ」。
そしてお皿、テーブルと椅子、カトラリーもそうだし、料理を運んでくる給仕のスタッフが「インフラ」。全部がそろって、はじめておいしい料理が食べられるという訳だ。
私はIT関連の仕事をするまで、「コンテンツ」といえば、単に「目次」を意味している程度と認識していた。索引は「インデックス」であるから、ニュアンスとしては「メニュー」に近い、と。
にわかに「コンテンツ産業」という表現を耳にする機会が増えて、はたと不思議に思った。「中身」を創作することは、たしかに産業と呼べる商業活動だろう。だけれど、この「生産活動」から生み出され、世に送り出される「創作物」は、単純に押し並べて「コンテンツ」と呼んでよいのだろうか。
商品棚に陳列されている形態は同じだとしても(例えば「CD」)、ビートルズとブラームスは違う。
同じブラームスの交響曲の1番のCDだとしても、Aフィルハーモニーの録音とB交響楽団とでは違う。
5分39秒とうい尺(times)が同じ曲があったとしても、歌謡曲とスラッシュメタルでは違う。
一方、3時間の映画でも90分の映画でも、料金は同じだ。
さて、ここまで意図的に避けてきた言葉(表現)がある。
産業として創られ、消費活動として人に吸収される音楽、美術、文学、漫画やアニメ、ゲーム、料理、建築、自動車、家具、衣類、医薬品、農作物に狩猟採集の魚介類や鳥獣肉類、ありとあらゆるもの、これらは確かに「情報の中身」だ。
だけれども、これらは潰して整形されて人に提供されるわけではない。
これらは、いずれも「作品(work)」だ。作品は、1点1点が独特(unique)だ。
大量生産、大量消費されるものでも、それ自体は代替できない。
「ナスカレー」は「ナスっぽいものが入ったカレーっぽいもの」では置き換えできない。
商品として「コンテンツ」と呼ばれ、扱われ、流通されるとき、ひとつひとつは表情を失うかもしれない。
市民一人一人には顔がないかもしれない。しかし人は一人一人が個別の存在。
子供は、親にとっては「作品」ではあっても「情報の中身(コンテンツ)」ではないだろう。
私が違和感を感じる「コンテンツ産業」という表現。
ひとつひとつが違う、だから受け入れられる、多様で個別の作品。
多様であるから多数が生まれ、作品には愛情が注がれるし、創作者(あるいは職人)には敬意が払われる。
価値がある。価値が分かる、知られている。
ときどき明星にように輝く傑作(masterpiece)も現れる。
コンテンツ産業というのは、送り手と受け手が、その価値を共有できることが根底にある。
愛情、情熱、真摯な態度、諧謔の精神、自分こそが天才だと思える強心臓、批判には臆病だがいつでも貪欲に受け入れる謙虚さ、そして、それらの矛盾を統合しながら、「なぜ」に解を与えようとすること。
こうした創作者の諸条件を超越してきた創作者が世に送り出すものを「ガワ」と「ナカミ」の中身に過ぎないと言うことに、私は抵抗を感じるのだが……。
ファンや支持者が支払う対価への理解。
必ずしもビジネスとしてのコンテンツの仲介者がファンでなくてもよい。ただしこの「理解」は必要だと私は考える。
とりあえず、今日考えたのはここまで。
また後日、じょじょに詰めていく。
2008年4月14日
PowerBook G4 1GHz 12" に Mac OS X 10.5 Leopard を入れる。
PowerBook G4 1GHz 12" に Mac OS X 10.5 Leopard を入れる。
[Update有り 08-7-23] updateだけを見る場合は下へ下へとスクロールをドゾ。
愛機のPowerBook G4 1GHz 12" 756MB に Mac OS X 10.5 Leopard を入れて約1ヶ月が経った。
このインストールに踏み切る前に、あちこちのサイトを参考にさせてもらった。PB G4 1GHzへのLeopardのインストールを考えている人に向けて、私も書置きを残しておく。
使用1ヶ月の感想:すごくイイ感じ。もっと早くこうすべきだった、と思わずにはいられない。
勤め先にも申請を出し、セキュリティまわりも要件を満たして社用に。12インチのPBの重量約3Kg 2.1kg はやや重いが、出先と自宅でも使える環境を得たことは大きい。
今回は、10.2.8から10.5 Leopardへのアップグレード。
買ってきた。
参考URL:http://homepage3.nifty.com/~blacksheep/tips.html
加えて、FileVault もセッティング。
参考URL:http://docs.info.apple.com/article.html?path=Mac/10.5/jp/8736.html
[08-6-8 update]
たしかにCPU的な物足りなさが、ないわけではない。
動画の再生、重めなアプリケーションの同時起動といった状況ではちとつらいものがある。が、「遅くはなる」が「止まる」ことはいまのところない。
それよりも気づいたどうしようにもならないこと:マシン自体が重い。……こればっかりは……
動画系のサイトを見続けるには、少々の愛情が必要かも。
個人的には平気だが、人に見せるときに処理オチすると、ちょっとアレかも……?
Safariはその後、ほとんど使っていない。
2008年3月9日
#——初めてその本を読む読者を想定読者とせよ。その読者に理解可能な書き方で表現しなければ情報の発信と受け手側の理解は成功しない。読者が理解をしないということは、その企画は失敗だったということである。
と、同時に、
受け手が期待しているものを知ることなく、コミュニケーションを行うことはできない。期待を知って、初めてその期待を利用できる。あるいは、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックの必要を知る。(P129)
#先入観による期待に応えることで読者には快感が生まれ、期待をあえて破壊することで、好奇心を刺激することができる。
2008年3月2日
いずれしろ仕事が遅いということは、「有言実行」ならぬ「有限速行」のスピードが求められる時代では、仕事人として致命的な欠陥といえます。(中略)そもそも仕事というのは、九割は雑事といってよく、本当に頭を悩ます、あるいは創造性を必要とする仕事は一割もあればいいほうです。ただ、その一割が重要なのですが、雑事もその積み重ねが大きな仕事の成就を支えるので、決しておろそかにはできません。p144
自分の仕事の能力がいまいち伸び切らないと感じている人は、そのなかでも自分の最も得意とするコア・コンピテンシーは何なのかを認識する必要があります。また人に仕事を頼む場合は、既存の評価尺度だけでなく、頼もうとする相手のコンピテンシーをつかみ、その考え方や行動特性に着目すると良いと思います。p145
同じ考え方、同じ見方、同じ感じ方のものがいくら集まっても、これからは飛躍、発展、進歩は望めない。違った考え方、違った見方、違った感じ方の人が大勢いて、初めて飛躍もあるし成長もある——これが多様性(ダイバシティ)の考え方です。p147
企画書、提案書などを作るとき、目的(趣旨)というものを必ず入れます。「なぜこの企画を立案したか」に始まり、企画を作るに至った背景、企画内容の要点、達成目標、問題点、期限などを、ごく簡潔に記します。大義名分書とは企画書、提案書のこの部分に相当するといってよいでしょう。逆に大義名分書がうまく作れなかったら、その仕事はたいした意味がないのことである可能せいが大きい。p167
経過が要約され問題点が浮き彫りになれば「次の一手」が考えやすい。
経過書が持つメリットは、大きく分けて三つあると思います。「全体像がすぐ把握できる」「選択的に迅速理解できる」「推測、予見、予知が可能になる」。経過書を上手に作るコツは、箇条書きにする、比較対照する、図式・図解の多用、イラスト化、キーワードの抽出。p168
ビジネス文書の五つの原則。1必ず用件見出しをつくり、最初に結論を持ってくる。2読む気にさせる。3箇条書きを多用し、拾い読みでも分かるようにする。4最初の三分の一で読むのを止めても理解できるようにする。5すべてを肯定的、前向きに書く。p182
人は本能的に安定を求めます。しかし、変化の時代は安定性の維持が難しい。そこで大切になってくるのがバランス感覚といことです。(中略)バランス感覚の有無を判定するポイントは五つあります。第一は、「結果を想定する能力があるか」、第二は「視野の広さ」、第三に「自己改革ができるか」、第四は「定石を疑えるか」、第五は「迷った時に人に相談できるか」。多くの情報に接し、多くの人にであり、自らも冷静な観察力、判断力、豊かな感受性などを養う必要があります。p217
『朝10時までに仕事は片付ける』
#業務の効率向上に、機械化が最適であった時代はおわった。大量生産は今後はますます人手を介さなくなる。人間力を高める方法を、具体的、かつ簡潔に述べている。ただの仕事の作業効率ではなく、仕事自体の質の向上を説いている。生産性があがることで、業務時間は短縮できる。短縮された業務時間は、個人が仕事以外の面で生きる時間を提供する。そこに早起きによる時間確保の力が加われば、本当にその人物が、「人らしく生きる」道を模索できると思う。
「重要なことは<すでに起こった未来>を確認することである。すでに起こってしまい、もはや後戻りできない変化、しかも重大な影響力をもつことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することである」(『すでに起こった未来』P・ドラッカー著、上田惇生ほか訳、ダイヤモンド社刊)
未来はすいでに起こっているのです。だが、その変化にほとんど人はまだ気付いていません。その変化を発見するには「観察すればいい」とドラッカーは言っています。だが、観察しても気付く人と気付かない人がいます。
その差は何かといえば、決して分析データや調査結果ではなく、思う、感じる、考えるといった人間力なのです。偉大な人間力は、ひらめき、直観、ファジィ(あいまいさ)などによって発揮されることが少なくなく、この種の能力は残念ながらコンピュータには備わっていません。
だから、私たちは安心してこの種の感受性に磨きをかければいい。
そのためには、たえず本物や位置流なもの、いいものに接することです。最高のものは人に感動を呼び起こすものです。だから寸暇を作っては、美術館に行ったり、一流の演奏会に行って感動することが大切だと思うのです。
(中略)
一方、直感やカンは、試行錯誤を繰り返しながら、からだで覚えるものだと思います。問題意識を高めながら追究しているなかで、経験や知識が知恵となったとき、直感が磨かれていくのだと思うのです。
『朝10時までに仕事は片付ける』p80
#長く引用したが、とても本質的に重要なことを述べていると思う。
人間が、コンピュータに対し、どのような優越性を持っているのか。それはカンの力だ。
機械にできることしかできない人間は、今後はますます不要になるだろう。
知恵と直感に優れた人物たることが目指される領域なのだと思う。
「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきをみざるなり」
意味はこうです。「戦術がまずいながらも迅速に動いたと言う話は聞いたことがあるが、うまいやり方で長い時間動き続けたという話は聞いたことがない」
要するに、戦いを長引かせて国益になったためしがない、ということです。戦いにあっては巧遅より拙速のほうが良いと理解できます。時間を制するものはよく勝ちを制する。「スケジュールをつくり、つねに前倒しで実行する」ことです。
『朝10時までに仕事は片付ける』p44
#上手であることは良いことだ。しかし完成が遅い人の作業が早くなるには時間がかかる。
一方、仕上がりの完成度が低いが、手際良く進める者は、慣れるにしたがって完成度は高まる。
作業速度こそ、最重要な要素だと言えるだろう。
2008年3月1日
2008年2月24日
梅田 そう、役割の違いです。それは物語であれ、哲学書であれば、評論であれ、構造化がしっかりとなされたものを、一ページ目から三百ページまでをずっと順に読んでいくということに子供の頃からやっぱり親しむ、そういう習慣をつけるということんお重要性は絶対になくならないですよね。それが身についていたら、ネットで物足りなくなれば、本へ戻ってくるはずですからね。
梅田 「教養」の核になる、読み、書き考える力を身に付けさせてくれるのは、ネットよりも、思考がしっかりと構造化された本だと思いますよ。
『ウェブ人間論』p181
#ウェブが書籍を駆逐するか、という論議を見事に吹き飛ばす対話だと思う。ウェブの進化と真価が検索にあることを知り尽くしている梅田氏は本の特徴は構造化であり、構造的思考力を身に付けるのは構造への理解力が身に付く本以外にはない、と見抜く。
本が持つ構造化の力を身に付けられ泣ければ、ウェブが持つ検索性を有効活用することはできないのだろう。断片情報だけを入手しても、それは知性へと昇華されえない。
作品の存在を知らなかった人がそういう情報によって存在を知って本を買うと言うプラスの方が大きいと思うんです。
『ウェブ人間論』p120
#雑誌のWebに携わっていると、製作中の新刊の内容について、どこまで情報を開示すべきかを検討する。情報提供を上手におこなうことで、「webで見たから買わない」人をゼロにし、「webで始めてその雑誌に興味をもった」人を増やす方法を模索している。
梅田 ただ、それをみんながおもしろがってどんどん悪い方向に向かうのは、むしろリアル側の狭いコミュニティでより強く起こっている現象なんじゃないですか。ネット上で大事なのは伝播力なのです。書く人がいても、誰も見向きしないというのは、存在しないのと一緒。そう考えることが大切です。これは悪いものだけど面白いぞってリンクを張る人が相当数いると、検索でも上位にくるんだけど、全体でみればそんなにとんでもないことにはなっていないと思う。
平野 その自動排除のシステムは、しかし、良し悪しですね。個々人の理性的な判断がそういうものを淘汰するのであれば結構なことですけど、その良さがわからないせいで淘汰されてしまう優良な情報もあるでしょうし。
『ウェブ人間論』p105
#すごく本質的な話をしていると思う。
「秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうことだ」と塩野七生氏は書いている。天才的なひらめきによって発信された「優良な情報」を誰が拾うのだろうか? それに気付く秀才がどこかにいるはずだ。拾われる石は宝石の原石。マックス・ブロートがいなければカフカはいなかった。人類の宝たる「優良な情報」は淘汰ごときでは消えないのが、「真に優良な情報」の条件だと言える。
秀才の悲劇は、天才の偉大さをわかってしまうところにある。凡才ならば理解できないために幸福でいられるのに、神は、凡才よりは高い才能を与えた秀才に は、それを許さなかったのであろう。「神が愛したもうた者(アマデウス)」の偉大さは理解できても、自分にはそれを与えられなかったということを悟った者 は、どのような気持ちになるものであろう。
「わが友マキアヴェッリ」P541
一つは梅田さんにみたいに、リアル社会との間に断絶がなくて、ブログも実名で書き、他のブロガーとのやりとりにも、リアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
二つ目は、リアル社会の生活の中では十分に発揮できな自分の多様な一面が、ネット社会で表現されている場合。趣味の世界だとか、まあ、分かりあえる人たち同士で割ときやすい交流が行われているもの。
この二つは、コミュニケーションが前提となっているから、言葉遣いも、割と丁寧ですね。
三つ目は、一種の日記ですね。日々の記録をつけていくという感じで、実際に公開するという意識も強くないのかもしれない。
四つ目は、学校や社会といったリアル社会の規則に抑圧されていて、語られることのない内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットでこそ自分は本音を語れる、つまり、ネットの中の自分こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログですね。
で、五つ目は、一種の妄想とか空想のはけ口として、半ば自覚的なんだと思いますがネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。これは、ある種のネット的な言葉遣いに従う中で、気が付かないうちに、普段の自分とは懸け離れてしまっているという場合もあると思いますが。
『ウェブ人間論』p72
#
この後、匿名性についての議論をはさみ、梅田氏は、「(ブログには)日常では分からないことが現れている。リアル世界で付き合っていても相手のすべてがわかるってわけじゃない。両方合わせて一人のアイデンティティで、「ああ、人間って面白いな」って、僕などは思ってしまう」と答えている。
夏目漱石の『こころ』でも、主人公が「先生」の心の闇の中を知るのは最終章になってからだ。ひとりのすべてを知ることはできない。人の過去のすべてを把握することはできない。人の未来を予見することはできない。
人のアイデンティティについて、今後、私は考えてみたい。
これは人間観の問題になりますが、僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。僕だってその内実は他人にとって何の役にも立たない部分が大半ではないかと思う。だけど、、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたちという願望はやっぱりあるんです。(p54)
『ウェブ人間論』平野啓一郎/梅田望夫 p52、54
#人間同士の関係を点と線として結んでいくと、そこには膨大な網目が見えてくる。私と私の妻の間には夫婦という関係があり、私から妻の方向をみると「配偶者」とラベリングされている。妻から私をみると「夫」というラベルとともに、「給金運搬人」という札もぶら下がっている。この部分に限り、双方からみたとき、この関係に限り、網のこの部分は「赤い糸」だ。
Webが可視化、あるいは物質化という言葉には、テクノロジーによって、この関係は人間関係のリンクの仕方(糸のありかた)について具体化を実現させた、という意味が含まれているだろう。
分類と系統立てには、タグ付けが不可欠だ。人は他人をタグ付けする。タグは情報だ。人がその他人について、知っていることはすべてタグで表現されうる。他人の知らない面を知った時、タグが追加される。人類が思索をはじめた瞬間から続いてきたこの思想はテクノロジーと共に具現化された。「汝自身を知れ」、だ。「私はこういう人間である」とする主張はそこそこに、自身の内なるタグを探すべきなのだろうか。「自分はこうである」は「自分はこう思われたい」に過ぎないのだろうから。
永遠に問い続けるのだろうか。「私は、誰だ?」。
2008年2月16日
全く新しい事象を前にして、いくつになっても前向きにそれをおもしろがり、積極的に未来志向で考え、何か挑戦したいと思う若い世代を明るく励ます。それがシリコンバレーの「大人の流儀」たるオプティミズムである。
「ウェブ進化論」p246
#私の目指す大人は、世代交代をみずから奨励するような大人。それが私の目指す大人。自分の時代で自分のもの、知恵、アイデア、そうしたものを存分に出し切って創造の限りを尽くした後、それを次世代に託す。取捨選択は任せる。前の世代から引き継いだものを、次の世代へ、次の世代というのはつまり、未来の世界への遺産として残すこと。私は音楽を通じて、それを学んだ。10代の時、60歳までに世界の頂点たるプレイヤーになることが目標だった。前の世代からバトンタッチされるものを、次の世代へ受け渡す。きっと、そうして1000年にわたって、芸術は生き続けていくだろう、音楽は生きながらえていくだろう、と信じていた。やめるその日までは。でも、そういうことなんだ。前向き、明るく、期待をこめて、希望を持つ。そうした成熟した大人になりたい。
一気に高速道路の終点にたどりついたあとにどういう生き方をすべきなのか。特に若い世代は、そのことについて意識的でなければならない。
「ウェブ進化論」p216
#インターネットを「知の高速道路」と表現するかたは多い。私は「音声ガイダンスと照準を自動で合わせてくれるオート機能付き望遠鏡」と表現したい。肉眼では知り得なかった情報、肉眼で認識できる距離まで接近しなくては手に入らなかった情報が、足労をかけずとも見られるから。地球儀を手にして、世界の広大さと、世界の有限さを同時に知った子供のように、インターネットで知ったことを、どのように蓄積し、バイアスをかけるか。あるいは醸造するのかを考える。
- 時系列にカジュアルに記載でき要領に事実上限界がないこと、
- カテゴリー分類とキーワード検索ができること
- 手ぶらで動いても(自分のPCを持ち歩かなくとも)インターネットへアクセスさえあれば情報にたどりつけること
- 他者とその内容をシェアするのが容易であること
- 他者との間で知的生産の創発的発展が期待できること
さまざまな「知的生産の道具」と長いこと格闘してきた結果、
- 道具はシンプルなのがいい
- 道具にたいしては過度に期待するのではなく、その道具の特徴を理解してこちらからうまく歩み寄り、道具と自分がお互いに短所を補いあうようにしながら一体になってしっくりとやっていけるかどうか
ブログを「知的生産の道具」として使う場合の、私の方からの「歩み寄り方」とは何か。それは、
- 対象となる情報源がネット上のものである場合
- リンクを貼る
- 出典も転記
- 最も重要な部分はコピペ
- 簡単な意見も合わせて書けばさらにいい
- 対象となる情報源がネット上のものでない場合
- 出典を転記
- 最も重要な部分を筆写
- なぜ筆写したのかもきちんと書けば、筆写部分を「引用」扱いにできる。
「ウェブ進化論」p166-7
#ご明察! 筆写理由がなければ、自分がそこに何を感じ、将来の自分に何を残そうとしたのか、見えなくなってしまう。
そうだった。私のこの転記には、これがぬけていた。大いに恥じ入る。
つまり情報の隠蔽を基本とする従来型組織を支援する情報システムである。
一方、情報の公開・共有を原則とする新しい仕組みの場合、あらゆる情報が公開されていても、絶対に処理しなければならない自分宛の情報以外は、読んでも読まなくてもいい。
情報の送り手ではなく受け手が、必要な情報を選んで処理していく。
(中略)
「この人間にこの情報は開示しても構わない」と誰かが判断した情報だけが開示される環境かで、個々人が仕事をしていく。だから、貴重な情報を握ってコントロールすることが組織を生き抜く原則となる。よって部門間で、情報共有を目的とする会議が増えていく。
しかしモチベーションの高いメンバーだけで構成される小さな組織っで、すべtねお情報が共有されると、ものすごいスピードで物事が進み、それが大きなパワーを生む。仕事の生産性が著しく向上する。
「ウェブ進化論」p81
2008年2月2日
その場の雰囲気がリラックスしてきたら、そこではじめてメモ帖を取り出すべきである。(p250)
ノン・メモ取材が推奨されるケース
- 自己顕示欲が強い相手
- 政治家、女優、宗教家など、作話性が強い相手。
- トップシークレットを握る相手
- 警戒心が前面に出て、喋ってよいことまで喋らなくなる。
- 素人を相手に取材する場合
- ドギマギして支離滅裂になるか、紋切り型の応えしか帰ってこなくなる。
インタビューの目的は、相手から情報を引き出すことであり、自分の知識をひけらかすことではない。こちらもそのテーマに(強いことを)少しは心得ていることを示してやる必要はある。(=ときには反論も必要である)
インタビューの最後の二、三分間は最も大切なとき。インタビューイはようやく解放されるのをよろこぶあまり、つい口が軽くなるもの。
ジョン・ガンサー
「それから安請け合いをしないことだね。忙しいときや自分でやれそうもないテーマを与えられたときは、ことわるほうがよい。それが編集者に対する思いやりというものだ」
大宅壮一が新聞社を辞して独立した大隈秀夫に贈った言葉
「文章の実習」p204
2008年1月31日
2008年1月21日
2008年1月14日
されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、という働きをもっております。p3
思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります。p4
言語は万能なものではなきこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。p4
もっとも実用的に書くということが、即ち芸術的手腕を要するところなので、これがなかなか容易に出来る業ではないのであります、p14
実用文においても、こういう技巧があればあった方がよいのであります。
口語体の大いなる欠点は表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥りやすいことでありまして、p20
文章のコツ、即ち人に「分からせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出出来ないことの限界を知り、その限界内にとどまることが第一 p20
口語文といえ、文章の音楽的効果と視覚的効果とを全然無視してよいはずはありません。なぜなら人に「分からせる」ためには、文字の形とか音の調子とか言うことも、あづかって力があるからであります。読者自身はあるいはそれらの関係を意識しないで読んでいるかもしれません。しかしながら、眼や耳からくる感覚的な快さが、いかに理解を助けるものであるかと言うことは、名文家は皆よく知っているのであります。p25
われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差し支えない。p26
即ち、真に「分からせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。
文章をつづる場合に、先ずその文句を実際に声に出して暗誦し、それがすらすらと言えるかどうかを試してみることが必要。p33
この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章ではなくて、われらが日常眼に触れるところの、一般的、実用的な文章でありますp65
文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法には囚われるな。全体、日本語には、西洋語にあるようなむづかしい文法と言うものはありません。p67
文法のためにおかれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するように心がけるのが、名文を書く秘訣なのであります。p67
感覚を研くにはどうすればよいのかと言うと、
出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと が第一であります。次に
実際に自分で作ってみること が第二であります。p86
文章の要素を
- 用語:分かりやすい語を選ぶこと。
- 調子:その文章における調子は、その人の精神の流動であり、リズム。簡潔さや流麗さ、冷静さなど。
- 文体:ある文章の書き方を、流れと見て、その流露感の方から論ずれば調子、流れを一つの状態と見れば、文体。
- 体裁:文字の視覚的要素。文章の視覚的並びに音楽的効果としてのみ取り扱う。
- 品格:饒舌を慎むこと、言葉使いを粗略にせぬこと、敬語や尊称を疎かにせぬこと。それにふさわしい精神を涵養することが第一。
- 含蓄:あまりはっきりとさせようとせぬこと、意味のつながりに間隙を置くこと。
と、こう六つに分けることにいたします。p98
『文章読本』谷崎潤一郎 初版昭和35年
2008年1月13日
があえて私見を述べれば、やはり、これは人間の物語なのではあるまいか。出来事の粗筋を決定するのは、ほとんどの場合、神々の意志であり、その点では人間の介入する余地はないのだが、それが古代ギリシア人の見た神々の姿だったろう。
まったくの話、神々は気紛れで、なにを考え、なにを意図しているのかわからない。恵みを垂れてくれたかと思えば、突然、罰を与えたりする。なんの理由もないのに……。少なくとも人間には、なんの理由もないように思えるのに……。
——しかし、これだけの罰を受ける以上、なにか理由があるにちがいない——
人間たちは悩み、問いかけ、祈り、そして努力をする。計り知れない神の意志に翻弄されながら、どのようにして自分んお、人間としての倫理を確立するか。避けることのできない死をどう迎えるか。二つの叙事詩には、神々の気紛れにもまれながら葛藤する人間のドラマが随所に見えてきて、それゆえに、これは人間の物語だと思うことが私にはできるのである。現代の私たちも、このように神を見ようとすれば、見えてくるだろう。
『ホメロスを楽しむために』p283
キュプリア(キプロス物語) 戦争の原因と開戦の経緯が描かれる
イリアス アキレウスとアガメムノンの確執と和解、ヘクトルの戦死が描かれる アイティオピス(エチオピア王物語) ペンテシレイア率いるアマゾン軍が、次いでエチオピア王メムノンの軍がトロイアに加勢するがアキレウスに討たれる。そしてアキレウスの死、アキレウスの武具をめぐってオデュッセウスと大アイアスが争った事などが記されている。
小イリアス (トロイア小譚)オデュセウスと大アイアすの争いで校舎が敗れて狂気に陥ることを描く。
イリオスの陥落(トロイア落城)木馬の計略、木馬を城内に搬入することに反対したラオコーンやカッサンドラの予言が描かれ、トロイアが壊滅する様子が描かれる。
帰国物語
オデュッセイア
テレゴニア
http://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle
| Title | Length (books) | Most common attribution | Content |
|---|---|---|---|
| Cypria | 11 | Stasinus | the events leading up to the Trojan War and the first nine years of the conflict, especially the Judgement of Paris |
| Iliad | 24 | Homer | Achilleus' rage against first king Agamemnon and then the Trojan prince Hector, ending with Achilleus killing Hector in revenge for the death of Patroclus |
| Aethiopis | 5 | Arctinus | the arrival of the Trojan allies, Penthesileia the Amazon and Memnon; their deaths at Achilleus' hands in revenge for the death of Antilochus; Achilleus' own death |
| Little Iliad | 4 | Lesches | events after Achilles' death, including the building of the Trojan Horse |
| Iliou persis ("Sack of Troy") | 2 | Arctinus | the destruction of Troy by the Greeks |
| Nostoi ("returns") | 5 | Agias or Eumelus | the return home of the Greek force and the events contingent upon their arrival, concluding with the returns of Agamemnon and Menelaus |
| Odyssey | 24 | Homer | the end of Odysseus' voyage home and his vengeance on his wife Penelope's suitors, who have devoured his property in his absence |
| Telegony | 2 | Eugammon | Odysseus' voyage to Thesprotia and return to Ithaca, and death at the hands of an illegitimate son Telegonus |
ここで付言しておけば、古代ギリシア人にとって、ホメロスの歌は娯楽である以上に、道徳教育でもあった、ということである。<イリアス>や<オデュッセイア>を聞きながら、
――なるほど。アガメムノンはそう考えたのかーー
とかあるいは、
――オレもやっぱりオデュッセウスのように生きなきゃいかんなーー
とか、伝説上の英雄たちの原稿に思いを馳せ、それを生きていく糧としていたのである。
阿刀田高『ホメロスを楽しむために』p76
2008年1月6日
ヤマニ氏は、未開の人間と無教養な人間の違いを知っているかと問いかけた。(中略)
未開人はちっとも無教養ではない。緊密に織り上げられた社会に支えられながら、未開人はわれわれとまったく違う手段で知識を世代から世代へと伝えている。これに対して、無教養な人間というのは現代社会の産物だ。この社会の網の目はもつれてしまっていて、人を支える力がない。
この偉大な族長(シャイフ)の見方は、パパートの「コンストラクティヴィズム(構成的方法)」の考えを未開社会にあてはめたもにほかならない。
『ビーイング・デジタル』p280
もちろん、これに異議を唱える人もいる。特にヨーロッパや日本では多いだろう。仕事と自分との間に距離を置きたい人の権利を無視するつもりは毛頭ない。ただ、それとは逆に自分をいつも「接続された(ワイアード)」状態にしておきたい人間もいるのだ。単純に、どちらをとるかというだけのことである。わたし個人は、日曜に電子メールに返事を書くことになったとしても、月曜に少しでも長くパジャマを着ていられる方がいいと思っている。
『ビーイング・デジタル』p265
漢字の象形文字的な正確から、ファックスの利用は自然な流れだった。当時はコンピュータで読める日本語の文書はほとんどなかったから、ファックスを使う不利益もあまりなかったのだ。しかし記号的性格の強い英語のような言語では、コンピュータの可読性の点からいってファックスは大失敗だった。(中略)
ファックスモデムのついたコンピュータがあれば、途中で紙を使う段階は省略できる。(中略)
ファックスと電子メールのアイデアは、どちらも一〇〇年ほど前からすでにあった。ジュール・ヴェルヌが一八六三年に書いた『二十世紀のパリ』という小説の原稿が一九九四年に発見され、刊行された。ヴェルヌはその中でこう書いている。「写真電送を使えば、あらゆる文章や署名や挿絵を遠くへ送ることができる。(二万キロメートルも)離れたところから契約書に署名できるのだ。どの家庭も電線でつながっている」
『ビーイング・デジタル』p258
2008年1月3日
TV
写真
写真技術を完成させた人々は自分が表現するのに必要だからそうした。
芸術上の必要に合わせて、テクニックを洗練させた。
作家が自分の表現したい内容に合わせて形式を創造したように。
コンピュータ
社会のあらゆる階層の豊かな創造力を持った個人の手に直接つながることにより、利用面でも開発面でも創造的な表現手段となりつつあるのだ。
『ビーイング・デジタル』p119
2007年12月31日
トーマスはいつもそう思っていたに違いない。
『二人の紅茶王』P104
トーマスはトーマス・リプトン。リプトン紅茶の創業者にして、大衆紅茶をイギリスのみならず、世界に定着させた世紀の商人。
両親はアイルランドの大飢饉から逃れ、イングランドのグラスゴーに移住した難民。小さな雑貨商を営み、その経営哲学は、一人息子のトーマスへ引き継がれた。
ほぼ無一文に近い状態からのスタート。丁稚奉公をしながらビジネスの才を延ばした天才的商人、トーマス・リプトン。
常にイギリス上流階級に対し、皮肉的な視線を送りながらも、童心を忘れず、生産者を搾取もしなかった。
王室の経済的な難題の解決にも陰で助力。その功績は王室にも認められ、最終的には准男爵の爵位まで得るに至る。
2007年12月26日
演繹、帰納:真偽を論証
アブダクション:良否を検証
deduction(演繹)
前提となる主張から、別の主張を導く
induction(帰納)
観察されてデータ(蓄積された情報)を基に、真である普遍法則が導き出される。
→帰納ははたして有効な科学的推論か?
- データは完全無欠ではない
- 背景仮定から完全に中立かどうかは不明
- データの集積の延長線上に見えて来る普遍法則とは?
abduction(仮説的推論)
「結果から原因へとさかのぼっていく推理」
「裁量の説明を発見する」推論方式
アブダクションの命名者はチャールズ・S・パース 19世紀の哲学者で記号論の創始者。
アブダクションの特徴
- 真偽は問はない
- 観察されたデータに基づいて「より良い説明」を与えてくれる推論を相互比較する
- 対立理論との検証
系統樹思考の世界 -p65
2007年12月24日
2007年12月23日
ダーウィンが「種の起原」で示した「進化」の同義語 -p17
進化的思考 Evolutionary thinking
進化的にものを考えることで、それまで説明のつかなかったことが一幅の絵のように整然とした論になる。 -p18
系統樹思考
--何か相互に由来関係があるのではないか、という問いかけ -p24
多様性を「系譜」という観点で理解しようとすること -p37
科学的であるかどうかは、個々の科学研究分野の特性や制約の中で、いかにして仮説や主張を経験的にテストできるかどうかに主眼がおかれるべき。 -p45
普遍法則を求める科学が「タイプ」について論議してきたのに対し、歴史や進化を論じる科学は「トークン」に関する考察をしていると言ってもかまわない -p75
分類は絶対的なものではなく、ある採用された分類基準(類似性の尺度)にしたがってグループ分けをしているに過ぎない。 -p
系統樹を描くということは、多様な対象物に関する鳥瞰図を与えると同時に(略)相互比較のための足場を組み立て、そのような多様性が生じた因果に関する推類を可能にし、さらには対象物に関するさまざまな地検を体系化し、整理するという役割も担っている。 -p164
「系統樹の世界」
2007年12月2日
2007年11月25日
キーワードは「国民皆兵制」
- 一家に一台の自動小銃
- 一村にひとつの射撃訓練場
- 一年に2週間の兵役
歴史的背景
ロマンシュ語族の独立戦争
- 連邦制
- フランス語、ドイツ語、イタリア語による4つの公用語
スイス傭兵の時代
- 兵士の育成と派遣のビジネス
ナポレオンによる(支配) 征服
とばっちり敗戦
ナポレオンの百日天下では連合側につく
オーストリアから見れば「自分の味方でなければ、敵と組んでいるに違いない」と思われる立場
中立であることのリスク
中立にはリスクがともなう。
中立であることは、周囲のすべてが敵であることと、同義。
いじめを無視して放置することもいじめであるという理論に近い。
国際連合との付き合い方
- 軍事行動への不参加
- 不参加
中立を守ることは、複数の正義の両方と戦わなければならない
- アルプスの要塞に籠城してナチスとの戦闘を回避したことは、連合国側からの領空侵犯と誤爆を受けることを招いた
2007年11月20日
フランスが経済力では日本の後塵を拝しながら、国際政治では日本と比較にならないほどの発言力を保持している理由は3つある。
- 国連安全保障理事会5カ国の一角であること
- 核兵器保有国であること
- 首脳外交を軸とした外交力
フランス大統領は国防と外交を専管事項とし、内政を担当する首相と明確に棲み分けている。
このため大統領は内政に煩わされることなく、積極的な首脳外交を展開し、「フランスの考えと存在を、国際社会により広く知らしめる」ことを可能にしているのである。
ヨーロッパの宮廷外交で外交術を磨いてきた伝統もあるが、何かあるすぐさま内政に足をとられる日本の首相と比べ、外交力で差が出るのは明らかだ。
「エリゼ宮の食卓」p221
2007年11月19日
2007年11月15日
目標に向かってすべてのものを統合する。
その方向がはっきりしていないと、まとめをすることができない。
収斂的思考は思考の半分に過ぎない。しかも受動的半分である。
創造的半分は拡散的思考、つまり誤解を恐れず、タンジェントの方向に脱出しようとするエネルギーによって生み出される思考である。
これまでにこれが充分認識されないできたのが、われわれの社会の不幸であった。
本当の独創、創造ということが、“変人”でないとできにくいというのは悲しい。
自分の新しい解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。
収斂派からは、誤読、誤読だと非難される。しかし、読みにおいて拡散的作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。
古典は拡散的読みによって形成されるからである。筆者の意図がそのままそっくり認められて古典になった作品、文章はひとつも存在しないことはすでにのべたとおりである。
「思考の整理学」P208
2007年11月14日
苦笑するしかないが、これが現実なのだろう。
——宗教を敵にまわしてはならない。また、神と関係することすべては、敵にまわさないように心がけるべきである。なぜなら、この対象たるや、馬鹿者どもの頭に、あまりにも協力な影響力をもっているからである。——
ごもっとも!
——権力と名誉は、誰もが求めるものである。なぜなら、普通は華やかな面のみが眼につくからで、権力や名誉がもたらす苦労や不快な面はかくれているからだ。しかし、もしも両面とも陽の下に明らかになるとすれば、権力や名誉を求める理由は、ひとつを残せば失われてしまうであろう。そのひとつというのは敬意を払われれば払われるだけ、人は、神に近い存在となったように思えることである。
男に生まれて、誰が神に似ることを望まない者がいようか。——
『覚え書』(リコルディ) グイッチャルディーニが家族のために書き残した
「わが友マキアヴェッリ」P527
マキアヴェッリの研究者たちが、この時代のマキアヴェッリを不幸と断じるのに、私はどうしても賛同することができない。たしかに、彼は不幸ではあった。だが、それは、不幸であるとtおもに、幸福であり、幸福であるとともに不幸である、というたぐいの不幸ではなかったか、と私には思えてならない。だからこそ、創作が可能であったのだ、と。創り出すと言う行為は、幸福であるだけでもできないものだが、不幸であるからといってできるというものでもないからである。しかし、この種の幸福は、実を追求することが本来の任務である学者たちには、なかなか分かってもらえないものかもしれない。
「わが友マキアヴェッリ」P460
往復書簡が価値をもつには、いくつかの条件が満たされる必要がある。
- 書き手二人ともが、手紙を介した対話であろうと思うこと。それがために、書かれる内容は、送られてきた相手の手紙の内容を受けたものでなくてはならない。双方とも勝手に思うことを書きあっているだけでは、往復書簡にはなり得ないのである。
- 書き手は双方とも、率直に想いをはき出す性質の持主である必要がある。社会的な地位に関係なく、人間対人間のぶつかりあいが、対話なのだから。
- 共通の関心ごとをもつということである。
- 双方ともが、自らの意とすることを格別の苦労もせずに伝えることのできる、文章力の持主であることだろう。手紙一本化久野に気が重くなるようでは、往復書簡のパートナーにはなれない。マキアヴェッリはいうまでもないが、フランチェスコ・ヴェットーリのほうも、後年歴史物などものしたくらいだから、なかなかの文章力の持主であった。
- この人とならば話せる、と思う者動詞であることだろう。時間的精神的余裕の有無は、さほどの問題ではあに。偶然にしても、この時期のマキアヴェッリもヴェットーリも相当に暇な身分だったが、忙しさでは人一倍であったのはずのユリウス・カエサルこそ、往復書簡のはじめ手であったとされている。カエサルの場合は口述筆記をさせていたということだが、要は、手紙を通じて対話をしてみたいと思うか思わないかの問題でしかない。
「わが友マキアヴェッリ」P428
2007年11月13日
創造の本質、人間の欲求である「見たい、知りたい、分かりたい」が爆発した精神運動。
創造への結晶。考えるだけでは不十分、表現することで初めて理解となる。
ルネサンスに至るまでの土壌
- 聖フランチェスコ
- 商人の子、大学の出ではない
- 日常語であったイタリア語でキリスト教の教えを説いた。
- ラテン語は民衆とは乖離。イエスの教えを民衆が自らの頭で考える、新しい聖書の解釈。
- 選択の自由。非難、排撃をしない。
- 修道院に寄進すれば救済があるとしたことは、商人に受け入れられた。
- 貧しさを尊ぶ思想
- フリードリヒ二世
- 神聖ローマ帝国皇帝。
- 皇帝だが高等教育を受けておらず、キリスト教社会では異分子的存在。
- 大学を出ていないが、ギリシア語、ラテン語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、アラビア語を読み書き話せた。
- 数学、幾何学、天文学に強い関心をもっていた。
フランチェスコは、
- 聖書と向き合う
- 虚心とともに読解
- 自然と向き合う
- 内なる声を聴こうとした
フリードリヒ二世は
- 好奇心おもむくままに読書した
- アラブ人たちを臣下におき、科学の教授を受け、実地教育を受けた
宗教に対する3つの態度
フリードリヒ二世の時代から800年が過ぎてもなお、現代のヨーロッパでは……
- ateo
- 神の存在を信じない。無神論者、無信仰者。
- credente
- 信仰者。
- 特にpraticante は教義に忠実、ミサには必ず通うような人々。
- laico
- 神の存在を否定はしないが、宗教の関与すべき分野とそうでない分野を明確に区別する人々。
★ルネサンス期のヨーロッパにおいては、マキアヴェッリも、ガリレオ・ガリレイも、フリードリヒ二世も laico であった。
いわば、ルネサンスは laico たちの精神活動であった。
フィレンツェ人気質
我が身まで傷付けかねないほどの強烈な批判精神。
芸術家の工房は一階にあり、同時に店でもあったので、自由に出入りできた。
↓
誰でも自由に批評を言っては立ち去っていった。
購入する気のある人も、ない人も。
↓
芸術家はこの手の忠告に貪欲。
批判者と言い争った後で、こっそり作品を補正していたのだろう。
↓
当時のフィレンツェは絵画、彫刻に限らず、美を追求するならば何でも引き受けていた。絵も、彫刻も、金工も。
★フィレンツェの工房では、見習いはあらゆる作業に従事した。ジャンルを専任するのは、出世後の事だった。
出版の自由
言論の自由が認められていたヴェネツィアで、出版のルネサンスがおこった。
★出版によって、知識は協会と修道院から市井へと広がった
グーテンベルク
- 1455年 「42行聖書」の印刷
アルド・マヌッツィオ アルド出版社を創立
- 1490年 ヴェネツィアに渡る
- 1494年 「ギリシア詩集」刊行
- 1498年 「アリストテレス全集」刊行
- ギリシア、古代ローマの「古典」のほか、エラスムス等「現代」作品も刊行した
1495-97年の間、全ヨーロッパで1821点の書物が刊行された。
その内、447点がヴェネツィアで刊行された。(2位のパリは181点)
■ アルドが発明したもの
- イタリック体(書体)
- 読みやすく、ページ内の文字数を多くすることができた
- 文庫
- 紙を8回折るとこから、「オッターヴォ」(八つ折り)と呼ばれた
- 安価さと小ささで、一般と学生にヒット。普及の原動力となった
芸術の振興は教養のある経済人による援助が不可欠。
フィレンツェでは、コシモ・デ・メディチ、ピエロ、ロレンツォの三代がそれにあたる。
■メセナの語源
古代ローマの皇帝ティベリウスの補佐であったマエケナスが詩人のヴェルギリウスやホラティウスを援助したことに由来。
アカデミア・プラトニカの終焉
一流学者たちの解散。
その理由は、観念論は別の観念で向かってこられると、意外と弱いもの。
ヨーロッパ屈指の学術機関だったのに、ロレンツォの死後、2年で解散。
哲学と科学
誰かがごく一般的な疑問をもった時に発生する「好奇心」。これが科学と哲学の種。
ギリシア文明はわずか200年間のあいだに華やかな知性の爆発があった。
- 芸術、科学、文学、哲学
- すさまじい量の創作が起こった
- ヨーロッパ文明の基礎となった。
★すべての事柄に「なぜ」を突き付ける
そして、自分なりの回答を常に探す(仮説、想定)、そして見つける事
創作者に不可欠な要素
- 謙虚さ
- 誰にも負けないという傲慢不遜
一見矛盾するこの要素が成立するのが創作者・クリエイターの条件
常人であれば、その矛盾が精神のハレーションを起こしてしまう。精神の不安定化を招く。
創作は「なぜ」に対する、自分なりの回答でもある。
表現は伝達の手段であると同時に、頭の中の考えを明解にする効果もある。
ローマ市の略記号
「SPQR」 Senatus Populus Que Romanus 「元老院ならびにローマ市民」
現代ローマ人は皮肉で Sono porci questi romani 「ローマ市民は豚である」と表現さえする。
どこの国よりも国際的、コスモポリタン「ローマ」
反動宗教改革と異端審問の時代
異端審問官の「実績」をみよ。
動機のただしさを確信している者の行う悪こそ凄まじい。
16世紀半ば、異端審問官の手の及ばない知は、ヴェネツィアかアムステルダムのみだった。
ヴェネツィアでは
- 異端審問が開かれなかったわけではない。設置は認められていた
- ただし、共和国側の人間(俗人)の出席が義務と定められた
- 会則には、委員がひとりでも退席したら、流会になると決めた
大航海時代
大航海時代における重要人物
<氏名/出身地/出資者>
- バルトロメオ・ディアス ■ポルトガル ■ポルトガル王
- クリストフォロ・コロンブス ■ジェノヴァ ■スペイン女王
- ヴァスコ・ダ・ガマ ■ポルトガル ■ポルトガル王
- アメリゴ・ヴェスプッチ ■フィレンツェ ■スペイン王
- フェルディナンド・マゼラン ■ポルトガル ■スペイン王
- ジョヴァンニ・ダ・ヴェランツァーノ ■フィレンツェ ■フランス王
★大航海時代の航海探検は航海者が企画を出資者に売り込んで実現したもの。スポンサーにももくろみがある。
スペインやポルトガル人は進出先を領有するため、ヴェネツィア等は交易のため。
インカ帝国の滅亡は、スペイン人による掠奪によるものだから、もし、イタリア人が大航海時代をリードしていたならば、インカは滅亡しなかったかもしれない。
大航海時代の隠れた主役
パオロ・トスカネッリ
コロンブスに、インドへの近道は、アフリカに沿っての南下ではなく、大西洋を西へと横断する方法であると言った人物。
人生のほとんどをフィレンツェで過ごしたが、地理学、天文学、宇宙学の学者。
自然現象の観測と数学、幾何学によって、緯度と経度の概念を考えた。
ギリシア語とラテン語に非違で、古代の文献を自分の考えに取り入れた。
また、ハレーよりも前に、ハレー彗星を4度も観測した記録がある。
権威と権力
- ヴェネツィアは、このバランスを巧みに取った。
- 国家の代表者である元首(ドージェ)、その権威は国家の最高
- しかし権力は元老院200票の中の1票でしかない。十人委員会では17票の中の1票
- 権力が権威のもとに集まらないように工夫されていた
権威と権力が比例するのが帝政や君主性である
- ヴェネツィアには「大金持ち(大富豪)」は現れなかったが「富豪」は大勢いた。
- 貧富の差はいつもあったが、「層」として固定されておらず、敗者復活戦のシステムがあった。
- 遺族年金のシステムも存在していた。
表現とは。天才の作品を理解するには
表現とは、自己満足ではない。
他者に伝えたいという強烈な想いが内包されているからこそ、力強い作品に結晶する。
芸術の解説書を読む必要などない。
作品を前にし、自分が「天才」になったつもりで「虚心平気」に彼らと向き合えば良い。
天才とは、こちらも天才になった気にならなければ、肉薄できない存在なのだ。
ダ・ヴィンチが書いたものには、「キミ」という呼びかけが使われていることが多い。
となれば、その「キミ」になって読まなければ、どうしてダ・ヴィンチを理解できようか。
塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」