東京で働いていて、作業をしている間はもちろん熱心に業務にいそしんでいて、脇目も振らないんだけれど、ふと、外の景色(主に空や街路樹や植え込みなど)に目をやると、本当にこんなんでいいのかな、と思うことがある。
通勤路で見かける様々なもの。
カラスとスズメとハトの違いは分かる。
でも他の都市の鳥は?
皇居のお堀のハクチョウと、線路の高架下のツバメは知っている。
でも他の渡り鳥のことは?
イチョウとサクラはひと目で分かるし、落ち葉の形にも愛着がある。
でも他の樹は?
ススキとタンポポの名前は知っている。
でも他の雑草は? 七草もソラで言えるかどうか。
鳥も、樹も、草も、そうした目につくもののことをちっとも知らない。そんな自分の存在に、午前6時の通勤時(あるいは退勤時だったか)に気づく。
一日の大半を、PCの画面か、紙を見て過ごす。
絵も見ない。
通勤で下車駅に国立近代美術館があるけれど、竹橋を渡ったことはない。
画集はすべて、二束三文で古書店に持ち込んだ。
音楽も聴かない。
CDは手元にない。iPodを買う予定もなし。
来日演奏家のスケジュールも知らない。
本は少しは読むけれど、小説は少なめ。
詩はもっと少ない。
仕事で大量の文章を書くし、メールや郵便物も多く作る。
でも……
「お世話になっております……
「おつかれさまです……
たいていはこの2句のどちらかではじまり、
「何卒宜しくお願い致します……
で終わる。
路上で、肩を耳に引っ付けるようにして、薄っぺらい携帯電話で話をしながらウンコ座りで必死にメモをとるビジネスマンの姿は、今じゃ普通。
通勤で、バッグを持っていない人を見かけることはあまりない。
B4とか、A3くらいの大きいサイズが多いように思う。
何をそんなに、持ち運ぶものがあるのだろう? と考え込んでしまう。
しかし私も、全財産(あるいはアイデンティティ)を背負って歩いているオタクなわけで、「『持たない』っていう美学」を両肩からタスキ掛けに下げているに過ぎない。
故・城山三郎の日記が出版されていたのでを少し立ち読みしたときに、『どうせ、あちら側には手ぶらでいく』というフレーズを見た。
二十代のわたしには、「どうせ」の諦観を完全に理解することはまだできないが、「あちら側には手ぶらでいく」には同感だ。火葬場の印象については以前書いた。
(2007年10月6日「火葬場の印象」)
あの、「何もなさ」感が、わたしの感じる「どうせ」だ。
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「死ぬ」って言葉は、動詞です。動詞は動きを示すわけですけど、死体は動きませんよ。死体になるまでは、死んでいないわけです。それなら「死ぬ」って、どの時点の話ですか。脳死の議論のときに、「もはや死に向かって不可逆的に進行するしかない状態」なんていう定義がありましたけど、それなら脳死の定義じゃなくて、人生の定義ですよ。(養老孟司『運のつき』)
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だから、「どう生きるか」でしょ、と。
人は去る。しかし作品は残る。
JobやWorkはすぐに忘れられる。Operaは残る。
とはいえ、そんなに肩肘を張って、鼻息を荒くしたって、何も作れやしない。
(鼻息といえば、水木しげるの漫画の人物を連想してしまう)
まあ、で、書きながら、このモヤモヤしているものは何だろう、と思っていたら、ひとつわかった。
わたしに必要なのは、休息だって、ことかなあ、と。