2007年7月31日

山西龍郎著「音のアルカディア~角笛の鳴り響くところ~」より

  

音の社会史

  

社会の<音>象学へ(p77)

楽器制作者:中世以来の伝統的な職人(Handwerker)の形態を保持。
他の産業:19世紀の産業革命以来大変貌。

すなわち手作業とは
1 板金を切り、合わせ目を蝋付けして管を作りトノコを塗って溶かした鉛を流し込み、  腕の力で丸く曲げ、木槌で叩いて広げる、といった作業。
2 ベルトコンベアも細切れの作業工程表もない。
3 足下に転がる部品にも気に留めず、つなぎを来た少人数の職人が一心不乱に一つの物  と格闘する姿。


中世ドイツで楽器作りで名を馳せた街はニュルンベルク
  →独自の冶金技術の開発など。
     →欧州の楽器作りの中心地となった。
→中世の職人社会の理想的な程に完成されていた。

* それ以前のローマ時代にあった管楽器製作法の伝統は絶たれていた。
 (直管喇叭のtuba、背負いホルンのcornu、アルプホルン型のlituus等)

*この街の職匠歌人のハンス・ザックスとそれを登場させたヴァーグナーの「ニュルンベ ルクのマイスタージンガー」を想起せよ。

*弦楽器のミッテンヴァルト、金属山地と言われるエルク山系のマルクノイキルヒェン、 クリンゲンタール、グラスリッツ、プラハ、ヴィーン等楽器匠の街はニュルンベルクに 端発しているケースが多い。

*古楽器の復元演奏の例に中世末期からバロック期の名匠の作品をモデルにしている事
 も。(例=nach/afterEhe、Hans、Hainlein)中でもハース家のトランペットやホルンは銘 器と誉れ高い。

中世都市を支えた同職組合(Zunft、Innung)の中でも石工や楽器匠は手工業の職分制を最近まで保持していた。
 ・少年の無給で住み込みの徒弟(Lehrling)
 ・実質的作業担当者の職人(Gesselle)
 ・店、工房の主で組合に入り市民としてエーレ(公民としての栄誉)を持ち市政にも参  加している、親方(Meister)
どの一軒を取ってもこのミニマムな同心円的職分秩序が支配していた。


修行(Ausbildung)
 →・3カ所以上の街でそれぞれ別の親方の下で修行。(:遍歴、Wanderung)
  ・一つ一つ認定を受ける。
  ・その後初めて自分の街の親方試験を受けられる。
  ・試験に通過したら、市民として権利を享受し行使できる。
    ↓
  ・しかし帰ってきた街も甘くはない。
・厳しく制限された親方の数(その中で、出来たら自分の息子をという考え)
    ↓
  ・どんなマイスターシュトゥック(マスターピース:銘器、本来は親方合格品)も、
  ・新参職人とあればあらゆる嫌がらせがあったと言われる。
*アレクサンダー家もセダン、ミルテンベルク、マインツと移った当座、提出したクラリ ネットをすり替えられたと社史に記するほど。

*この職人時代の苦しい修行の有様は「教養小説(Bildungsroman)」の一情景そのものと している。文学にも青春の通過儀礼風に描かれ続けてきた。


ドイツの楽器匠は特に音楽の生成そのものと深く関わっていた。
 例=ライプツィヒの街とバッハの関係。
   ・oboe da cacciaやcorno da cacciaと呼ばれる狩猟系の新楽器。
・E.T.A.ホフマンの「ウンディーネ」等に始まるロマン派の絶え間なく揺れ動く心情と旋律の対応を可能にした、シュレージエンのブリューメルや、シュテルツェルとベルリンの工房モーリツ等によるヴァルヴの発明。(のちに溶鉱炉の風送り弁(Ventil)からの発想という話)
・ヘッケルやアレクサンダーによるヴァーグナーやR.シュトラウスの求めた音のための楽器の創出。ヴァーグナー・テューバやヘッケルフォン。


1 アレクサンダー家

アレクサンダー家とは、16世紀末「ナント(Nantes)の勅令」(1598年)前後の混乱を避けて、アルデンヌ地方からドイツ領に流れてきた新教徒ユグノーの末裔である。ヴェルとハイム、 ミルテンベルクを経て1780年大聖堂(ドーム)のある街マインツに定住。宗教の方も柔軟なルター派を経てカトリックへ移す。転居の度に店を拡大していった跡も。

・第1の隆盛期(1870年代)
 ドイツが帝国統一を成し遂げた頃。その時期の軍隊の整備とそれに関連した軍楽隊の楽器調達に絡み商圏を拡大。諸連隊(レギメント)の長も多く招かれた1883年の「創業百年祭」では、deutsch(ドイツ的)と形容して帝国緒隆盛と社運を結びつけた。

*アレクサンダー家が地元の宮廷御用達楽器メーカーとして認知された時、社名の前に「ライン地方の」と修飾した。
    →フォークラント地方やザクセンのメーカーに対抗する意味があったとっされ      る。
→実際楽器メーカーとして自立するまでには後継者達にはヴィーンやニュルンベルク、ミュンヘンとならんでザクセンやボヘミア国境のフォークラントに修行に出かけた。(フォークラント地方、現在のチェコのマルクノイキルヘンが楽器製作の中心地なのは前述)

・マルクノイキルヘン自体、17世紀後半「反動宗教改革(ゲーゲンレフォルマティオン)」の弾圧を避けたボヘミア人(主にバイオリン工)が移住して開拓した街。平家の落人部落のような山襞深いところに街が造られたのもその為。
   →ボヘミアは、ヤン・フスの改革やユダヤ人の活動もあって社会的に波乱の多い地    方
  マルクノイキルヘンで木管に次いでホルンを中心とした金管の製作が始まったのは1 8世紀半ば。
  イザーク・エッシェンバッハがその礎を築いた。(イザークはライプツィヒで学ぶ)

<バッハ期>

 ライプツィヒや同じザクセン地方のドレスデンが楽器製作の中心地であった。当時の作品の多さからも伺い知ることが出来る。
     ・ホルンのストップ奏法を発見。
     ・ロータリー・ヴァルヴの改良。
 1840年マルクノイキルヘンには、
     Meister:49人。
    Gesselle、Lehring:100人近く。
   →つまりアレキサンダーがザクセン・フォークラントを意識するのも無理もない

*グラスリーチェ(旧ドイツ領グラスリッツ)
マルクノイキルヘンと同じ得るツ山系のライバル都市
    ・織物と並ぶ産業の中心は楽器製作
   1840年代には 金管マイスター20人
          木管マイスター10人 を擁した。
→300年の歴史を背景に ・1937年:木管でも10万本の輸出を記録。
             ・金管でもケーニヒグレーツ(プラハの北)のチェルヴェと              覇を競うボヘミア=オーストリア・ザクセンの雄。
       →その中で、リードル(Liedle)、ピュヒナー(Püchner)、アドラー(Adler)、
        メーニヒ(Mönich)、カイルヴェルト(Kailwelt)、ヒューラー(Hüller)、        シュライバー(Schleiber)、ヘッケル(Heckel、)コーレルト(Korlert)        と言ったブランドがここで生まれた。
(Möeck , H. : Fünf Jahrhunderte Deutscher Musikinstrumentenbau , 1987 , s24を参照)

→アレクサンダーが1920年代、グラスリッツの代表メーカーの一つである、ボーラン ド&フックス社(Borand & Fucks)の「ライン地方総代理店」となっている。理由は同 様の前述

→しかし第2次世界大戦の結果「フェアトライブンク(ドイツ系住民追放)」数百年の遺産を残したまま ・約13人のマイスターが西独へ逃れて、 ・ヴァルトクライブルク二協同組合を組織し、伝統を保持しようとして努めた結果が、 ・一つに現在のミラフォン(Mirafone)であり、ゲレツリートのマンイル()社も別のその後身の一つ。

 彼らは楽器に最近まで「グラスリッツの」と形容詞が刻印されているのはそうした理由による。(歴史性へのこだわり)

*オットー社(Otto)
   マルクノイキルヘンの文字が今も打たれている。
   旧東独を逃れ旧西独へ亡命。20世紀のドイツの

      

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